ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.251〜260
偕成社文庫の中でも、中学生以上向の分類になっているけれど、いわゆる「児童文学」、を読んでいる、という感覚ではありませんでした。「児童文学」として書かれたのかな? 違うような気がする(知りませんけど)。
他の訳でもでているようですが、偕成社文庫のものを読みました。
これもまた、時を扱った作品です。(参考:[257]『思い出のマーニー』) 不思議な感覚に満ちた作品。
山室静さんは、解説でご自身でも述べていらっしゃいますが、北欧伝説など、そういうものを訳しているイメージでした。山室さんは、最初は躊躇したけれど、読みかけたら、ひきつけられ、
「正直にいって、ほかのだれよりもわたしが訳すにふさわしい作品のひとつ、とまで思ったのです。」
(解説より p.221)
と書いていました。それほど強烈な印象をあたえる作品だったんですね。
また、この作品は、映画化もされているそうです。
この作品て、アメリカが舞台なんですよね? タイム・ファンタジーはイギリス小説というイメージがあるけれど。
まだ売れていない芸術家(画家)、イーベン・アダムズ。1938年冬、夕霧の中、彼はひとりの少女と出会う。ジェニー・アップルトンと名乗る少女は、ハンマースタインの寄席に出ている芸人の娘と言うのだが…。
「どこからわたしがきたのやら
だれも知らないの
でもわたしのいくほうへ
みんながいくの
風は吹き
海はながれる―
でもだれひとり知りやしない」
(p.18)
この詩を見て、少し、クリスティナ・ロセッティの詩、「風」を少し思い出しました。(参考:[109]『クリスチナ・ロセッティ詩抄』)
165ページ、ピクニックの場面では、ジェニーは最後、一行つけている。
「風は吹き
海はながれ―
そして神さまが知っている。」
話の中に、イーベンの言葉、またジェニーの言葉の中に、ときどきに、ジェニーの秘密を思わせるような言葉が見えます。
「そこに―この世のはてからはてまでの、かぎりない時代に生きた人間の総体のなかにまじって―おそらくはわれわれを愛して、それでなければ死んでしまうにちがいない、ひとつのたましいがあるのだろうか? そして、こちらからもその人を愛し、その人を、われわれの死にいたるまで、こがれにこがれ、いそぎにいそいで、さがしもとめてゆくべき人が?」
(p.147)
「この世界がどんなに美しいか、それを考えていたのよ、イーベン。(中略)
鳥がうたってるわ……わたしたちのために、きのうのために、でなければあすのために。それはけっして美よりほかのもののためにつくられているんじゃないわね、イーベン。―わたしたちがいま生きていようと、とおいむかしに生きていようと。」
(p.164)
うーん、ジェニーの言葉はほのめかしますが、二人は謎を追求しようとはあまりしないんですね。 ただひかれあう心、ひかれあって当然の魂がここにある、っていう感じ。
画廊の、マシュウズ氏のところのスピニー嬢が気になります。
(以下、ネタバレあり)
無粋ですが…。
さいご、イーベンとジェニーの「時」は、合致したということでしょうか。ガスが教えてくれた、ジェニーの両親に関する年、考えてみましたが…。
ジェニーの絵を見た人、実際に出あったことのある人もいるのに、歳について、疑問に思わなかったのでしょうか。
「義経と弁慶」のお話は前に読みたいと思って、この絵本を見つけていました。 今までも何冊か読んだ、ポプラ社の「日本の物語絵本」シリーズです。
このあいだ、石井桃子さんの[254]『ノンちゃん 雲に乗る』を読んでいたら、ノンちゃんのお兄さんが幼稚園のときに弁慶役をやった場面があったので、 この絵本をやはり読もうと。
「京の五条の橋の上」の歌があるけれど、イメージだけは何となく頭に浮かぶ。 少年の牛若丸が、ひらりひらりと橋の欄干に飛び乗るような…。でも、弁慶がどうして義経の家来になったのか、きちんと知らなかったし。
まず、後ろの解説からいきました。監修の、西本鶏介さんの書いたものです。
すると、弁慶との一騎打ちは五条の橋の上ではなく、清水の舞台とあるではありませんか。
えっ、五条の橋じゃないの。
まず、この絵本は、
「室町時代の『義経記(ぎけいき)』を原典として」
いるということだそうです。
『平家物語』や『源平盛衰記』とはまた違い、
「史実をふまえたフィクションであるところに歴史ロマンならではの魅力」
にあふれた義経記。判官びいき、悲劇的ヒーローに涙する心情がますますアップするように、工夫されている、ということでしょうか。
弁慶との一騎打ちが清水寺の舞台になっているのも、興味をひくように、「見物人のいる」
ところでさせている、ということだそうです。
(んっ? 待てよ。義経記がフィクションロマンで、一騎打ちが清水の舞台になっているとすると、 五条大橋で戦う、というのはどこに書いてあることなんだろう?)
絵は、これは版画でしょうか。ざくっとした線が、力強くていいですね。
いちばんしびれるところは、弁慶が矢にうたれても、すごい形相で仁王立ちしているところ。
石井桃子さん、から、見つけた本だったかな。
挿絵は、寺島竜一さんです。
「ようねんぶんこ」これでまだ2つしか読んでないけれど([256]『こぎつねルーファスとシンデレラ』)、「ようねんぶんこ」といっても、そんなにおこさま向けというような感じはせず、短めではあるけれど、わりと読み応えある感じのシリーズですね。
「鉄橋をわたってはいけない」
なんて、「ようねん」向けにしては何だか硬派なタイトルですね。
これはファンタジーや童話系ではなくて、リアル的現代ものでした。
ジェイミーは、パパが死んでしまうまでメルボルンに住んでいましたが、今はママの実家の農場にいます。ジェイミーは七つで小さいので、いとこのマルコムも相手にしてくれません。川の向こうのピンカートンの家にはいろんな年頃の子どもたちがいて、遊びたいのだけれど、ひとりで鉄橋をわたることは禁じられているのです。
列車が通る鉄橋をわたるというモチーフ、映画の「スタンド・バイ・ミー」を少し思い出しました。
デイビッドおじさん(マルコムのお父さん)がマルコムにおやすみを言いにくるところは、胸がちょっと痛みます。
「なんだ、なんだ、ぼうず。もう何もかも、だいじょうぶなんだ。」
(p.78)
この台詞はほっとしますね。
短い筋の中に、小さい男の子の気持ちや、孤独や、そして冒険、心の回復の物語が凝縮されていました。
再読です。前は、旧の版の岩波少年文庫で読んだ。
とても良かったので、再刊されたのをすごく喜び、買い込んだものの、積読すること、えーと2003年刊だから、もう5年にもなるのか。
これはぜひ、おすすめです。
時をあつかった物語*で有名なのは『トムは真夜中の庭で』、[116]『時の旅人』などですが、これは隠れた名作なんじゃないかと思う。
なんていうと、時を扱っているんだなとネタバレになってしまうのだけど、それは、読んでいるときに、たぶんそうかな…とわかってくること。
でもその不可思議さ、ファンタジカルな設定よりも、アンナの人物設定とか、マーニーと心通わす描写とかに、心惹かれて読んでいきます。
初めて読んだとき、主人公のアンナが、「しめっ地やしき」
を見て惹かれていく様子、サンドラに言われた言葉にドキっとした様子、センシティブなアンナの気持ちがよくわかって、これは私の物語なんだ、みたいに思いながらドキドキしながら読んだのを思い出します。
ワンタメニーじいさんが好きです。
孤独なワンタメニー。たぶん、誰も気づかない、気にしないようなささやかな人生。 だけど、ワンタメニーの秘密も不思議にひもとかれる。 ワンタメニー自身も気づかないうちにマーニーの心に位置を占め、アンナに引き継がれ、明らかにされる。
無駄な人生はひとつもないと思わせられるような小さな、でも不思議な出来事。
物語は、ちょっと『トムは真夜中の庭で』に影響うけているんじゃないかなあ?…と感じる。(違うかもしれないけど)
『トム』の原書は何年の刊だろう? こちらは1967年。
後半は、すこし人物がアンナに親切になりすぎて話がうまくいきすぎているような気もする。
挿絵(ペギー・フォートナム)もまたよかった。
(追記)
* (参考:[260]『ジェニーの肖像』を後日読む。)
石井桃子さん、続きます。
[116]『時の旅人』で有名な、アリソン・アトリー。
こんな本もあるとは知りませんでした。
しかも、この本には前編として、『こぎつねルーファスのぼうけん』というのがあるそうで、これも知らなかった。
「こぎつねルーファスのシンデレラ」 「こぎつねルーファスと一角獣」の二編が入っています。
石井さんのあとがきに、こちらは一角獣がでてきたりと、
「前篇より、この本のほうが、ずっとふしぎの要素が強いように思われます」
(p.74)
とありました。
また一角獣の解説や、イングランドとスコットランドの紋章と、争い、 それらが現われた童謡が文中にでてくることなどが興味をひきました。
[251]『かわせみの マルタン』に続き、カストール叢書の本。
今度も、福音館のじゃなくて、復刊されたほうのバージョンで読みました。
『かわせみのマルタン』は自然がとても詩的に美しく描写されていた。
それに比べると、こちらはもう少し、親しみやすく面白い感じ。
くまの母親が「そっけないとうさんだこと!」(p.9)
と文句を言ったり、くまの兄弟が、学校仕立ての描写で、音を聞いたりつめをといだりということを勉強する場面。興味津々のこぐまたちがかわいい。
関係ないけど、くまが冬眠する場面からはじまる、その冬眠。甲状腺の本を読んでいるとき、くまが冬眠できるのは甲状腺の働きの調節のおかげだと書いているのを見て、『くまのブウル』を思い出し、そうだったんだと感心した。
あまり日本の作品は読んでいないんですが、石井桃子さんの作品だし、読んでみようと思いました。
最初は、おとうさんの話、おかあさんの話と続くので、半分くらい進んでも、これからまだまだ続くのかと、ちょっと飽きてきそうになりました。
でも後半のほうが、ぐっと進めて読める気がする。
あ、気がついたことが。雲に乗っている間のは、文章の色が藍色のように青くて、前後の部分では文字は黒い。
なんだか、映画の『オズの魔法使』を思い出しました。
(参考:ブログの、映画『オズの魔法使』の記事)
ん、そういえば、あれも、これと似ていないでもないですよね…。
というとネタバレになりそうなのですけど。
雲に乗るって、なんとなく、ああいうことかと思っていたことが、あって、でも、はっきりとわからないこともある。
(長吉さんも雲に乗っていたのに)
ノンちゃんはいい子です。おじいさんがおにいちゃんの肩ばかりもつので、そのときは、ちょっと不満だった。
だって、おにいちゃんはいかにもいたずらだし、不注意なのは本当ですもの。
でもおじいさんはおにいちゃんの話ばかり聞きたがりますよね。
ノンちゃんは、わざと「シャクシジョウギ」(p.108)
なのじゃないし、成績が良いのだって、自慢してるわけじゃないのです。
でも読んでいるうちに、小さい心の中にある複雑な思いが、「修身の目次」(p.184)
のようにでなく、ありありと描かれていることが伝わってきました。
おにいちゃんがどういう人物か、ノンちゃんにとってどういうおにいちゃんか、おじいさんは、やさしくきびしく諭してくれました。
最後のほうは、悲しい感じですね。
そして、おにいちゃんも長吉も、あまりできた人物になってほしくなかったような…。
年月がたって、ノンちゃんが大人になっても今でも、「アークトルス」
(麦星)(p.243)
は、空に輝いていますね、きっと。
何気なく手にとった絵本だけど、これはめっけものです。
表紙は、赤ちゃんライオンを抱いている王さまのライオン。キュート。「コドモにKISS」のデジカメ(?)のCMのライオンの親子みたい。
この子にはなぜか翼がはえているんですね。王さまは猫の国の王さまで、名前はレオ王。(レオってジャングル大帝みたい…)
絵がらはとても緻密で、でもただ写実的というんじゃなくて、中世的な衣装を来た王さまや猫たちが、みていて愉快でかわいい。
王さまのひとつだけの悩み事は、北の国のオットー王の宮殿に、なにやら宝があるらしいということ。
王子ライオンはひょんなことから、窓からそよ風にのって出てしまったのです。つばさの使い方も知らないのに…。
この絵本は、ただ服を着た動物の、かわいい物語じゃありませんでした。たしかに、何故ライオンである必要があるのか、翼は、どうしても必要か、中世的な衣服は? と考えていったら、必然性はないかもしれない、と感じました。
でもそれはともかく、この本は大切なことを教えています。
「 本は、だれとでもわけあえる宝ものだ。 だから、この本を、おまえの国のともだちみんなに、よんであげなさい。
そして、本もまた、ともだちなのだということを、おぼえておおき。いずれ、おまえが国をおさめるようになったとき、かしこさとほんものの勇気を、あたえてくれるだろうから。」
(p.30)
平和の大切さを、こんな形で表現することができる。新鮮でした。
よろいを着た、猫(ひょう?)さんの剣の鞘には、薔薇の花がさしてありました。
さり気ない絵が、本をはじめて知った喜びと、知識の大切さと、平和を愛する気持ちを表しているようでした。
そしてこれは、本が好きな人に贈る物語でもあります。
本の見返しページにある、ABC順で並んでいる絵は、世界の多くのお話を表しています。
Aは「アンドロクレスとライオン」(ローマ伝説)」(p.32)
Oは「おばあさんとメンドリ」(北欧民話」)」(p.32)
Xは「クリスマス」(p.32)
というような具合に。
(ナゾ)
白黒場面の絵の、一番左の格子窓の中の猫が、船にむかって吊り下げているものは、何なのでしょう?
(余談)
王子が眠りについた場面の、ノアの箱舟の本から動物たちがでてくるところ、
掛け布団の四角いパッチワークの模様が、だんだんと畑の風景になって溶け込んでいくようなところ、デイヴィッド・ウィーズナーの[174]『フリー フォール』だったかな? 思い出した。
イギリス人なら誰でも知っている(?)という、イケニ族の女王、ブーディカ(ボーディッカ)。
テムズ河畔には、その像もあるという(ただし、戦車の車輪に大鎌がついているのは、間違いらしい)。
今まで読んだサトクリフの作品にも、文中に、時々、ブーディカの名前が出ていただろうか。私が女王を知ったのも、たぶん、サトクリフの作品に名前がでてたからだと思う。
少年(青年)が主人公のことが多いサトクリフが、この実在の女王を、描きました。
「訳者あとがき」でも書かれていましたけど、サトクリフが女性を描くことはめずらしいですね
(でもそこにある理由の中には、彼女の生い立ち(病気の体験から)も関係しているかもしれないと、乾さんも指摘しているようにそのことを思うと、胸が痛む。と同時に、そうか、今まで少年が主人公だったことの意味が、少しわかった気がする。)
この物語を語るのは、サトクリフの創作であろうか?、女王の竪琴弾き、カドワンという人物の目を通して。
ブーディカが幼い頃からいつもそばにいたカドワン。ローマの仕打ちのつらさもわかるし、ブーディカの中に、見知っているブーディカでないものを見たときの戸惑い。
岩波から出ている小説は、戦闘場面があっても、少年の挫折や、友や信頼する人との出会い、成長が前面にでていた。
でも、こちらは、より惨酷で、まがまがしく、これは「児童文学」ではないと、思った。
やがてのち、ローマンブリテンの総督となるアグリコラが、(若い武官として)母にあてた手紙の形でローマ側の動きを説明しているのが、小説の流れを一方にだけ流れるのを押さえ、引き締めているのがうまいなと思いました。
瀬田貞二さんの[242]『絵本論』でも載っていた、「ペール・カストールの画帖」のシリーズの(?)1冊。*1
「かわせみの マルタン」って、タイトルがなんだか口調というか語呂が妙に心地いい。
他にもペール・カストールシリーズはあるようだけど、まずこれがタイトルが耳に目についたので。
以前は福音館書店からでていたようだ。福音館のとどちらを読もうか迷ったけど、訳を見直したようだし、新しいほうを選んでみました。
でも、『かわせみの マルタン』の福音館版は見てないけど、『のうさぎのフルー』の福音館版を見たら、版の大きさがもっと小さかった。『のうさぎのフルー』を読むときはどちらにしようかなあ…。*2
「ペール・カストールの画帖」については、ベッティーナ・ヒューリマンの[70]『ヨーロッパの子どもの本』にも載っていました。
「わたし」という人物の目を通して、川辺の生き物や自然、そしてあるときやってきたかわせみの、生態が語られます。
子どもの本といっても、こびたところがなく、自然描写は、誇張も略もなく、ありのままに。
文章も美しいです。
(追記)
*1 (参考:[255]『くまのブウル』を後日読む。)
(追記)
*2 (参考:[263]『のうさぎのフルー』を後日読む。)
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