ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.111〜120
1918年、ミネソタ州ダルースではインフルエンザがはやり、10歳の少年マーベンの、父さんと母さんは、マーベンを町から出すことを考えました。行き先は、木材の伐採場。たったひとりでそこへ行き、そこで帳簿係を務めなければなりません。
絵は最初、あまりかわいくないと思った。話も、ある意味あっさりしているように思えた。(例えばジャン・ルイとの別れも長々ではない。)もちろん伐採場での生活はたいへんだろうし、残した家族への心配は募るのだけれど。周りの大人は親切だし、仕事もうまくやれる。(この話は作者のお父さんの実話であり、実際はとても苦労されたのかもしれない)
でも、だんだんじんわりといいなと思えてきました。
きこりのダンスの絵の、うごき。光のあたりぐあい。ジャン・ルイの、大きさ、優しさ。真っ青な目。ユダヤ教のきまりにあわない食事への心配。(でも、残したものはジャン・ルイが食べてくれた)
四ヶ月のうちに、いろいろな経験をしたマーベン。
灰島さんは、あとがきで、ジャン・ルイにかたぐるましてもらうマーベンの絵が好きだとおっしゃっている。そして、
「ひそかに、この絵を「少年王の帰還」の絵と呼んでいます。」(p.48)
と。
灰島さんのおっしゃる、
「小さい子ども向きではなく、もう少し年齢の上がった男の子向きの絵本」(p.48)
として、いかがでしょうか。すがすがしい余韻の残る絵本でした。
エリナー・ファージョンの『ヒナギク野のマーティン・ピピン』の中の一遍から、ということですけど、そちらでは読んでいません。
エルシー・ピドックは、「生まれながらのなわとびじょうず」
。その評判は、遠い村まで届いています。ケーバーン山の妖精も、そのうわさをききつけて…。
絵がいいです。軽やかな、さささっと描いただけのような、でも動きがあって。(よく知らないんですけど、アーディゾーニもちょっとこういうような印象受けたイメージありますけど、どうでしょう。)
こんなふうに、
「心配ごとははねとばせとび!」
ができるといいですねぇ。
「アンディ、スパンディ、
さとうのキャンディ、
アマンド入りあめんぼう!」
の歌が、ごろもあり、言葉のリズムや響きが目に耳に面白く思いました。
ブレンターノという人の本で、『少年の魔法の角笛』というのを読んでみたいなと思っているのですが、岩波文庫でこんな本があったのを見つけました。
表紙の説明の文章で、魔法の指輪がでてくるお話だというので興味を覚えました。読み始めると、どんどん読めました。
童話風のお話で、ゴッケル老人と妻のヒンケル、娘のガッケライアの名前、ぜんぶニワトリから意味をとっているんです。他の登場人物で、貪卵王という人がいて、その家族は全部卵関係の名前だったりします。
せりふのかわりになったような、定型詩というのか、ごろをあわせたような詩があって、それもリズムがよく面白い。
忠実な雄鶏のアレクトリオが、一番、いさぎよく雄雄しく思えました。ゴッケルが、アレクトリオをたたえる演説をした言葉の中に
「雄鶏は騎士」(p.69)
とあって、そこを読んでいると、
「頭は羽毛飾りと赤い兜巾で飾られ」
「足には拍車」
とあるように、雄鶏って騎士みたいかも…なんて思えてきます。それもアレクトリオが忠義だったからですけど。
アルニムとともに、ハイデルベルク・ロマン派をつくったというブレンターノ。『少年の魔法の角笛』も読んでみたく思います。
脇さんの本は、『読む力は生きる力』というのを読みたいと思っていて、それも手にとっているところです。それに、最近、マクドナルドの翻訳、絵本[107]『シンドバッドの冒険』の翻訳、と読み、デ・ラ・メアへの興味もあります。
脇さんは『指輪物語』と『ゲド戦記』がとてもお好きなようです。指輪物語に関することが読めるのは嬉しい。
デ・ラ・メアの[60]『九つの銅貨』、マクドナルドの[115]『お姫さまとゴブリンの物語』などのこともありました。
この本を読んで、一番どきどきしたのは、[47]『オシァン』のことがでていたこと。オシァンは、読んでとても良かったと思ったけれど、まさかこの本にでてきているとは思っていなかった。
でも、『指輪物語』と『オシァン』、似ているところあるけど…と思っていた(参考:[47]『オシァン』の感想の中の記述を参照)、そのことと関係することを、脇さんが以下のように書いておられた。
「しかしじつは『オシァン』には、勇士への愛のために男装して従軍する女性のエピソードが、いくつも出てくるのである。私が知っているかぎりでのトールキンの伝記には『オシァン』の名は出てこないが、それは学者として言及しにくい作品だったからかもしれず、ひょっとするとひそかに愛読していた可能性がないとは言えない。」
(p.155)
ここを読んだときはドキっとした。私はまるきり見当違いのことを考えたわけじゃないんだ! (もちろん、脇さんが言っているのも仮説です。それでも。)
また、男装のことでは、脇さんもそのことをも含めて言っているとは思うけど、やはり気になるのは、武具やかぶとをはずした時に女性だということが明らかになる、そこが共通するな、と思っています。そのハッと驚きの感覚というか、タイミングのようなもの。
また、[29]『ベーオウルフ』について書かれていたこと。
「「魔法の剣」的なモティーフと言えなくはない」(p.138)
ものを持ちながらも、
「それ以外には魔法的な要素はなく、」(p.138)
「しっかりつじつまが合い、リアルであるところが特徴的だ。これは、先ほど取り上げた『オシァン』が、アイルランド伝承と共通点を持ちながら、およそ魔法的な要素のない物語になっていることとも重なる、興味深い特徴である」(p.139)
そうそう、『ベーオウルフ』は、トールキンが影響受けたということは聞いていたので、似ているようなところ、雰囲気を、感じるのは自然でした。そして、それと似たような雰囲気を、『オシァン』にも感じたのです。不思議の世界というよりは、どちらかというと男性的な無骨な感じで、どっしりと重々しく、どこか「わび・さび」とでもいうようなものを感じさせるような…。
だから脇さんが、ベーオウルフ、オシァン、トールキンの世界、を同じ系列と考えて語っていたことが共感できました。それに対し、C.S.ルイスの世界にケルトの物語の不思議の世界、また千一夜物語などに通じるものを見、トールキンとルイスの2人の世界を語っていたところが興味ぶかかったです。
タイム・ファンタジーの中で有名な作品。
「グリーン・スリーヴス」の歌が、印象的に用いられています。それは知らなくて、読んでみてびっくりした。
(参考:ミュージックのページのトラッド・コーナーで、グリーン・スリーヴスの曲を取り上げています。)
この曲は、そうだ、エリザベス朝時代から親しまれていたということで、エリザベス女王にとらわれの身の、メアリー女王を取り上げた、このお話の時代と、ちょうどマッチしますね。
この曲がでてくるというつもりで読んだのじゃなかったけれど、読み終わって、この曲が効果的に使われていたことを嬉しく思いました。(でも悲しい話でもあるんですが…)
その他の点では、読みたかったこのタイムファンタジーものを読めたことは良かったのですが、全体としては、ひっかかるところも感じつつ、読んでいました。
(参考:[257]『思い出のマーニー』)
山の洞窟の中のゴブリンたち。『ホビットの冒険』(トールキン作)思い出す。
でもマクドナルドのゴブリンのほうが、たくらみはするけれど、もともとそんなに悪いというわけではないよう。
「ゴブリン」というのは、こういう顔で描かれるものなのか…。さし絵のゴブリン王、『ホビットの冒険』(岩波少年文庫)での大ゴブリンの絵(寺島竜一さん画)もこういう感じの顔だったな、と思ったです。
脇さんの後書きにも書いていたけれど、美しいおばあさま、その人物像は[17]『北風のうしろの国』にでてきた北風にそっくり重なるようでした。
[111]『かるいお姫さま』の本に入っていた、『昼の少年と夜の少女』で印象的だった「ランプ」(という表現)がここでもでてきました。
「夜だろうと昼だろうと、これは決して消えないのよ」(p.144)
おばあさまの言葉は、あちこちで、「たとえ」になっているように思えました。 心の目でみること、信じること。夢などではないと、迷わずに、いやたとえ迷っても、信じること。目で見えないものを信じること。こういう事がらや、言葉が何度もでてくるのです。それは、「信仰心」のことを言っているような気がします。
「桜草はちっとも出しゃばったりしないし、かといって、むやみにはずかしがりもしないんですもの」
(p.200)
(参考:[123]『カーディとお姫さまの物語』を後日読む。)
ル・カインが、お話も創作した絵本。絵も、前に読んだ2つの絵本[112]『雪の女王』、[106]『アーサー王の剣』とはまた違ったテイストに感じました。
森の王の息子の、マントの模様が美しいです。
マザー・グース関連の本で、名著というこの本、やっと読めました。
とても良かったです。文章も分かりやすく(私にはたまに読めない熟語などありましたが…)どんどん読めて、新書だけど難しい本を読んだという印象が薄く、身になった、という感じです。
ありました、ありました。いくつかの本で見ていた、<over the hills and far away>の言葉について、載っていました。
(参考:『農夫ジャイルズの冒険』)
雪の女王は、エドマンド・デュラックの絵の本[74]『アンデルセン童話集1 雪の女王』と、小学館の全集[82]『アンデルセン童話全集2』で読みましたが、今回は、エロール・ル・カインの絵本です。
アンデルセンの『雪の女王』をナオミ・ルイスが再話しました。
ル・カインの絵は、[106]『アーサー王の剣』のときは、ぺたりと塗りつぶすような感じを受けましたが、今度は、細かいです。花や、王女さまや山賊の娘の衣服など、カラフルです。カイやゲルダの横顔はあまりかわいくない。
見られてよかったのは、雪の軍隊と戦う「槍を持った小さなかがやく天使」
たちの絵。雪の怪物は顔が見えるけど、天使たちは、小さくてほとんど形だけ、ですが。
最後は、アンデルセンのほうを読んだときに印象的だったこと(大人になる)が、ないようですが…。あれが重要ポイントではないだろうか、と思った覚えがあるんです。大人でありながら、子どもの心を持つという…。
岩波少年文庫版のほうで読みました。『ふんわり王女』だったか他の訳でもあるようです。
体重がないお姫様、以前、似たような話読んだことあるんですよね。ジャンニ・ロダーリの『わらいじょうごのお姫さま』という本。体重がないわけじゃなかったかもしれないけど、わらいじょうごのところは似ているような気がする。
あの本はどういうことだったのだろう。マクドナルドを参考にしているのだろうか。それともこういうタイプのお話がもともとあるのだろうか? 全然関係ないのだろうか。
ロダーリのほうでは、お姫様は、戦争で体(と心)に傷を負った兵士を愛するようになったんだと思う。(だから人の心の痛みが理解できるようになったということ?)
さて、こちらのかるいお姫さまのほうは、王様とお妃さまの、悩み深くはあるけれどもわりと軽めな性格とか、深刻でありながらものんびりした面もある展開、そういうところ、ちょっぴりイーディス・ネズビットの ドラゴンの短編([93]『ドラゴンがいっぱい!』)を思い出しました。
お姫様もそうとう軽めな性格だけど、水の中にいるときの美しさが思い描けた。王子様危機のところは、どきどきして、感動しました。
もうひとつ入っているお話、「昼の少年と夜の少女」。途中までは、この話いいなーと思っていた。
このマクドナルドというひとの作品、トールキンやC.S.ルイスに影響を与えたということで重要なのはわかっているんだけど、前にマクドナルドの[17]『北風のうしろの国』を読んだときは、くどくどしさにうんざりするような気もしたものだから、好きになれるかどうか、と思う気持ちもあった。
この本は、良かったし、「昼の少年と夜の少女」もさいしょはとても心引かれた。だが途中からまた、独特の調子があらわれたか? 「ゴー・アウト」
のところ、美しい。夜の少女の気持ちや夜の美しさ、月の描写。だけど、やっぱり何度も同じことくりかえして言っている感じもして、
ちょっと長々しいかなあ。
後書きにもあったけれど、「たとえ」になっているんですよね。
ひとつわからなかったのは、矢のこと。いじめた矢だったから、って書いてあるけど、何故? そこのところがわからなかった。
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