ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.11〜20
児童文学評論のなかで有名な本みたいです。 少し気が重いかもしれない…と読み始めたら、面白い! サクサクとまでは読めなかったけど、いつのまにか引き込まれていきました。
紹介に最適だと思うので、訳者さんのあとがきをちょっと長いですが、書いておきます。
「この本には、ひどく力んでいるような固苦しいところがすこしもない。気楽に読める、楽しい本である。だがそれでいて、単に楽しいばかりではない。われわれはこの本を読みおわって、東西古今にわたって論じている、その幅の広さ、奥行きの深さをしみじみと感じさせられる。そして、それとともに多くの反省をうながされる。だから、この本は児童文学を論じた本のなかでも、まれに見る独特な存在といわなければならない。それもそのはず、この本の著者はフランス的機知(エスプリ)をふんだんに身につけた、博識多才の学者ポール・アザールなのだから。」
へえー、えらい人なんですね。 フランス人の<エスプリ>っていうのは、こういう感じなのかなあ。
児童文学の歴史には、それが生まれるまでには、子どもの扱いということからして問題がある時代があったそうで、そんな頃の、教育的かつ偽善的なまがい物の児童文学に対して、もう、すごくこきおろしているところがあるんですよ。思わずぷっと吹出してしまいそうになるような。 ジャンリス夫人だとか、ベルカンとかいう人は、私は全然知らないので何ともいえませんが、激しく皮肉を浴びせられています。
『美女と野獣』を書いたボーモン夫人も、あの物語はとても美しいと褒められているものの、彼女の子どもに対する姿勢自体は彼の批評を逃れることはできません。
でも彼が好む、真の子どもの本とは…と語っているところは、美しい。子どもと、子どもの本のことがよくわかっていて、そのために激しい熱意を持っている人なんだなぁと思います。
そして、ロンドンのジョン・ニューベリという人が初めて少年少女のための本屋を開きました。やっと子どもは、子どものための本を自分たちのものとする時代がやってきたのですね。 (今、ニューベリ賞とかいう賞がありますよね。この人の名前から取られたんでしょうか)
第二章では、「子どもが大人から身を守ったこと」
ということで、最初は子どものためでなく大人のために書かれた本であっても、子どもたちが自分のものにしてしまった本、について語られます。
『ロビンソン・クルーソー』という本は、文学史の中でもいつもよく語られていますね。 以前読んでみて、どうもはまれなかった覚えがあって、あえて読み返そうとは思えなかったですが、少し興味が出てきました。 『ガリヴァー旅行記』も、あまり読みたくない気分でしたが、同じくです。
あと、いろんなことがかかれています。ペローやアンデルセンやグリムのこともありました。 アンデルセンのことはとても褒めていて、なかでも彼が描いた冬や雪の景色が、雪など見たこともない子どもの心にまでどんなに影響を与えたかを語っている場面は美しいのです。
この論は最初に発表されたのが1932年(?)とかなり古くて、時代を感じるところもありますが、挑戦してみて良かったと思える本でした。
ねずみのミス・ビアンカシリーズの2作目です(旧版)。 (新版では「ダイヤの館の冒険」でしょうか?)
囚人友の会の議題は、今度は、ダイヤの館のおそろしい大公妃に捕われた少女を救い出すこと。
ミス・ビアンカの行動が、後半に至り、冴えてきました。
<暴君>と<八つ裂き>の警察ぶりが面白かった。一瞬味方になってくれるのかな、と思ったけど。 バーナードは、素朴だけど、素晴らしい活躍を見せる。忠実なナイトのようだ。 ミス・ビアンカはとても優雅で女性らしい。
ガース・ウィリアムズの絵の、12人の侍女がいいな、と思った。 ガース・ウィリアムズというのは、「しろいうさぎとくろいうさぎ」という絵本を描いた人だったんだ。 この絵本は読んでいないけど、表紙の絵はなんとなく知っている。 そういえば、あのしろいうさぎのふかふかした感じがミス・ビアンカの白い姿に通じるかも。
[11]『銀の枝』につづく、ローマン・ブリテン・シリーズ第三弾。
『銀の枝』の時代から150年(?)くらい後。 ローマの正規の軍団は既に40年も前にブリテンから引き揚げていました。
ローマは弱体化し、ブリテンには北部のケルトの勢力とさらにサクソン族の侵入が続いていました。
主人公アクイラは、ルトピエの砦に駐屯している地方軍団の騎兵隊の一指揮官でした。
そして、とうとう…、ブリテンに残るローマの軍はすべて、撤退することを余儀なくされるのでした。
そうです。とうとう<ルトピエの灯が消える
>ときがやってきたのでした。
しかし…。 ここからがこのお話の物語なのですが、この本のうしろのほうに載っている、カーネギー賞受賞に際しての著者のことば、これだけでもこの本を読む価値が大!と思いました。 この著者のことばにとても感動を覚えました。 少し抜き出してみます。
(歴史の教科書には) 「四千年ものブリテンの歴史を記述する数章のうち、ローマ軍の撤退についてはただの一ページがさかれているにすぎません。(略)
わたしは学校を出るずっと前から、ローマの歴史に興味をもっていたので、しぜん、ローマ時代のブリテンの歴史にも心ひかれていました。そしてサクソン人がブリテンを征服するには、実に二百五十年の余もかかったというおどろくべき事実に気づいたのです。この事実は(略)柔弱になってしまった、といわれている人びとに対して勝利を得ることが、実はけっしてたやすいものではなかったことを示すものではないでしょうか。」
調度NHKテレビの「ローマ帝国」の番組で見た、<脱走>の問題もあります。
軍団の兵士は家族を置いて、遠くの任地へ行かなければならない事があります。家族のことを思って軍を脱走することがあった、ということです。
その場合と、この本のような時代ではまた違うかもしれません。任地を移動する、といっても軍自体がなくなるのですから。でも確かにアクイラのもとに、家族のことを相談しにくる兵士もいました。
テレビを見ていたときは、脱走しても家族と共になんとかやっていけるのだろう…などとぼんやり思っていました。でも家族を置いていっても、また脱走して家族のもとに残っても、その家族はサクソン族の略奪に合う、という危険があったのですね、この時代は…。
そしてこの時代には、ただ家族のことを思って、というだけではない問題がありました。
「多くの者が、忠誠をつくすべきはローマであるか、ブリテンであるかという分裂状態のなかで、苦しみを味わったにちがいありません」
ローマは征服者でしたが、450年間の間に、南部・中部のブリテンの民はローマに同化され、またローマもブリテンの民に同化されていきました。ローマの地方軍団というのは、これらのブリトン人の軍です。アクイラもまた、ローマとブリテンの間で葛藤しました。でも彼は、引き裂かれはしませんでした。彼は、ある決断をします。
この本は、『銀の枝』に比べて、時がどんどん過ぎていって、その点はスピード感サスペンス感が『銀の枝』のほうがハラハラ度が高かったかな、と感じました。
でも、読み終わったあとの壮大感は、まるで映画のエンドロールを見ながら音楽にひたっているみたいに感動します。
この本の原題は、
「THE LANTERN BEARERS」
といいます。
邦題を考えると、ともしびをかかげる者(たち)ということですよね。
それは、物質的に砦の灯台に灯をともす、というだけでなく、この時代のブリテンの先行きに、という意味もあるのがわかります。が、またそれ以上のものも感じました。ローマ軍が勝ったら、サクソンが負けたら、ブリテンがどうのこうの、というだけでなく、歴史の中で、暗闇の中で、何か心のよりどころになるような存在、なにかそんなような感じを受けました。
結局のちには、サクソンは、ブリテンを支配してしまいます。でも戦い続けたアクイラは、彼が戦ってきたもう一つの戦い、自分自身の心の中に、このとき平安を見たのでは。そんな気がします。
補足1:
「THE LANTERN BEARERS」のBEARERSって、指輪物語の<指輪所持者>のRing-bearerの単語とおんなじー。指輪物語のほうの深い意味は、私にはちょっとまだ何とも言えない。けれど、bearには、 「運ぶ」だけでなくて、「支える」「耐える」とか、「持ちこたえる」とか、いろいろ意味があるみたいです。指輪を所持した者にはその多くの意味が、重みがかせられるのでしょうか? それを考えていると、関係ないところで何でも指輪に引っ掛けて考えるのはよくないけど、LANTERNをBEARするというのも、深い意味があるのかもー…と思えてきました。ちょっと思いついたので記しておきます。
補足2:
著者のことばのなかにあるのですが、ある登場人物、この人物はもしかしたらある英雄伝説の原型だったかもしれない、とあって、サトクリフの思いつきだけでないとしたら、もう<ええっ!?> と驚きながら読んでしまいました。し、知らなかった〜。
マクドナルドのこの本、少しずつ読みながら、途中で挫折しようかと思ったり。でもやっと読み終えました。
ひとことで言うと、とても<独特>。 独特な世界観・宗教観といったらよいのでしょうか。
ダイヤモンドという少年が馬小屋の上の部屋に住み、ある夜に壁の節穴から呼びかける北風と出合う。その北風は美しい女の人の姿になったり、また、おそろしい姿になっても自分を信ずるように言う。現に船を沈めたりするのです。北風は<北風>というだけでなく、そこを通るとある北風のうしろの国というのは、つまりは死のことでしょうね…。
二人の語らいが結構理屈っぽくてだらだら続くので、このまま最後までこの調子だったらどうしようかと思いました。 でも途中から展開がまた違ってきて、でも、これは、いわゆる起承転結というか、筋がどうとかいうのではなくて、一つ一つの章が、それぞれに独特な幻想性を持っています。
イラストがパステル調のメルヘン的なところが、この物語に合わない気がする(個人的な感想です)。いや、確かに<可愛らしい>話なのですけれども…。
ちょっと気になったのは、ダイヤモンド少年は、最初は一応普通の少年のように考えたり悩んだりするふうなのですが、最後になるにつれてもう、透明感というか超越した存在になっているのが、その表現上の変化が理解できなかった。
ダイヤモンドが赤ちゃんに歌う唄が、たくさんあって、それも不思議な感じでした。
「ネコとヴァイオリンのほんとうの話」
という歌が、これは「ヘイ・ディドル・ディドル」のことだと思う。変形かどうかは分らないけど…。他の歌もマザー・グースと関係あるのかなあ。
レイモンドさんの屋敷の建つ丘が「小山」
っていうのが面白いな、と思いました。指輪物語のビルボとフロドの住む、袋小路屋敷の「お山」みたい。原本の言葉はなんだろう。
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(参考:別訳を後日読む。[141]『北風のうしろの国』)
トールキンの、『ホビットの冒険』から『指輪物語』の人物や世界を、<言葉>から読み解いた本。
トールキンが、その世界を作り出したのは、
「地面の穴の中に、ひとりのホビットが住んでいました。」
と、生徒の白紙の答案用紙の裏に書いたのが、はじまりだったそうですが、
この本では、まずはその「ホビット」という言葉からはじめ、またその他の登場人物など、言葉の語源・なりたちを研究しては、物語の内なる意味を解き明かしていきます。
読んでいて、卵が先か、鶏が先か、みたいな感覚になりました。
もしも、デイさんが解き明かした通り、あるいはそれ以上の事をトールキンが意図していたとしたら、すごいなー…と思うような世界が展開されていくのですが、 あるいはトールキンさえも意識していなかったことがこれらの物語には含まれ得るのかもしれない、そんな<言葉>のもつ奥深さを、デイさんは語っているように思えました。
感銘を受けたのは、エッダの中にある「ドワーフの巻き物」
と呼ばれる、ドワーフの名前のリストについての記述。
それから「竜・長虫」
と「スマウグ」
と「穴」
についての考察が面白かった。
面白い考察だな、と思うところと、案外あっさり終わってしまう考察もあったように思う。
船遊びの時に事故にあったのは、バンゴじゃなくて、フロドのお父さんのドロゴだと思う。 訳注で指摘されていた。私でも気づいたんだけど、デイさんともあろう人が勘違い?どうしたんだろう…?
ちょうど、マクドナルドの本を読書中。そんな時この本でこんな記述を見つけた。
「むかし穴のなかに、ひとりのゴブリンが住んでいた」
J・R・R・トールキンが子ども時代に読んだ本にあった短い唄である。このフレーズが彼の心の底にひびき続け、何十年かたったあと、同じような小型の種族について書くことになり、最初の小説のあの有名な冒頭となったのだ。
「地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました」
このゴブリンの物語の作者こそ、ジョージ・マクドナルド。『お姫さまとゴブリン』のことなんだそうだ。そうだったのか!
本は、綺麗な体裁で絵もついているし、本文の内容も、私の知識でははっきり理解はできないけど、そういう考察が成り立つんだなー、という意味で納得のいくものでした。
でも、実のところ、この絵が好きになれない…。また、ホブゴブリンだとか妖精とか、そういう雰囲気が、好きでない…。指輪物語の映画や原作ではあまりそういう感じでとらえずにいて、あの世界が大好きなんだけど。
映画ロード・オブ・ザ・リングのための、デッサンやデジタル・ペイント、人物模型などの(ボツのものもふくめて)資料を集めた本。
三部の「王の帰還」の部分がメインのよう。大きくて立派なカラー本です。
怪鳥やら大蜘蛛など、見た目がいいとは言えないもののデッサンやらが載っているから、うー…と思いながらも、映画がすきだから、じっと見てしまう。
原作や映画に馴染みがない人には、よく分らない部分も多いと思います。 ファンの目には、こんなに細かく設定されているんだなとか、衣裳も映らないところまでも、考えられて作られたんだ…とかいろいろ考えさせられます。
ゴンドールのデザインはイタリア風なものを取り入れているとこの本にもあったし、どこか他でもゴンドールとイタリアの共通点のことがあったと記憶にあるけれど、映画を見てそれらしい雰囲気があるな、と思った。黒髪の憂い顔の女の人などがいたり、馬で出陣する場面で敷石の上に花を投げたりする雰囲気…。
そして、コンセプト・アートのアラン・リー氏の言葉。
「わたしたちはコンスタンティノープルに見られるように…(略)…執政に統治されているゴンドールのことを考えているとき、トールキンが崩壊しつつある後期のローマ帝国を脳裏に描いていたのかどうかは知らないが、わたしたちにはそれがふさわしいもののように思えたんだ…」
「彼らは、おそらく二度とは帰ることのない過ぎ去った時代に対して忠誠を誓った人々だ。命をかけて枯れた木と噴水の広場を守るのが彼らの仕事だ。彼らの顔を黒い覆いで隠すことで、わたしたちは彼をより超然とした存在に仕上げた。彼らは他の人々と交わることはない。(略)決して動かず、話をすることもない。」
なるほどー…。今度映画を見返したら、よく見てみよう。
デザインは、あくまで架空のものを作ってるわけだし、世界も架空のものですが…
これは個人的な感覚で思うのですが、やはり、この部族的なデザイン…どうしてもアフリカ的な気がして気になってしまうのです。
「ドワーフのなかでも最高にダンディなものにするために全力をつくしたわ。ギムリが家にあった一張羅を持ってきたかのように見せたかった。」
ギムリの衣裳、まだじっくり見てなかった。ギムリについての事があって嬉しい。この言葉だと、戴冠式までに一度故郷に戻ったということ? 映画でも原作でもそのあたりはどうなんだろう。戻る時間があったのかな。でも映画ではレゴラスも頭に輪みたいな冠みたいなものをつけてましたね。
ターナーの絵の光の具合など参考にした、というような事も書かれていた。なるほど。確かに、エルフの港って、ターナーの絵のような光の色かも。(ターナー知ってる訳じゃないですが、空や雲の光がきれいな絵をかくひとだとおもった)
サトクリフの絵本です。
サトクリフは歴史ものを多く書いている人で、こういう優しい本を書くとは思っていなかったです。
子どもの絵本というよりは、大人の人が、じっくり読んでやさしい気持ちになれる絵本だと思う。
「やがて音楽師の歌はすらすらと生まれるようになりました。なぜなら、愛するものができたからです。」
というのがいいですね。
白い馬にのった騎士が
「竜に出合ったら、とにかく退治するのが、騎士のつとめだと信じこんでいました。」
というのが、何か皮肉というか、読んでて滑稽でかつ哀しいようなものを感じてしまった。騎士っていうのは、正義のはずなのに、ここでは読者にとっては、竜の敵対者になるんですよね。
もりを歩いているおじいさんが、てぶくろを片方おとして 行ってしまうと、ねずみがかけてきて、そのてぶくろに住むことにします。
次にかえるがやってきて、入れてと言って、 次々にやってくる動物たちが、全部入っていくというおはなし。 てぶくろにそんなに入れるわけはないのだけれど それが何故か入っちゃう。
「ちょっと むりじゃないですか」
「いや、どうしても はいってみせる」
「それじゃ どうぞ」
なんていうやりとりの言葉が愉快。
動物たちがウクライナふう(?)の服を着ていて、手袋も、小枝のようなもので高床式になりバルコニーが張り出して、窓もついていて中から動物が覗いていたりするところが面白い。でも最後におじいさんが戻ってくると、みんなが去って、なんということもないただの手袋に戻っている。
「だれだ、てぶくろにすんでいるのは?」
「くいしんぼねずみと ぴょんぴょんがえると はやあしうさぎと おしゃれぎつねと…」
というように、答えがどんどん繰り返し増えていくところが、キーポイント。
このように言葉が繰り返して少しずつ増えていったり、少しずつ違っていったりするのが童話や民話にはよくあるみたいだ。
児童文学の本を読んでいると、この絵本のことが出てきてぜひ、読んでみたいと思った。
瀬田貞二さんの『幼い子の文学』には、<行って帰る>物語について語っている章があって、それにはいくつかのパターンがあり、このてぶくろのテーマも、それの中に入るそうだ。
「くいしんぼうのねこ」
と呼ばれるお話のパターンの変形のような形で。
そこにはまた、幼い子どもたちの好むパターンの物語には、<行って帰る>物語のパターンがある、という事が書かれていたのが印象に残った。
(参考:『幼い子の文学』(評論の項へ))
あと、確か吉田新一さんの本にも、この絵本は息子さんが気にいって繰り返し読むのをせがんだ絵本だというようなことが書いてあった記憶がある(うろ覚えなので違うかもしれないけど…)
それで、一度は見てみなくてはならないと思った。
(『トールキン小品集』の装丁が変わって改題されたもの)
評論社から出ている「てのり文庫」での、『星をのんだ かじや』 と 『農夫ジャイルズの冒険』 を先に読んで、その二つがこの本に入っているから、そこは飛ばして、『ニグルの木の葉』 と 『トム・ボンバディルの冒険』 を読みました。
ウートン村のかじやは子どもの頃、ケーキの中にはいった妖精の星をのみこんでから、額に星が輝き、声も美しくなって、妖精の国へ入ることができるようになります。
小品らしく、小さく美しいお話なのですが、
「妖精の乗組員はみんな背が高く、おそろしげでした。手にした太刀はきらきらかがやき、槍の穂先は光り、眼の光には人をつきさすようなするどさがありました。とつぜん戦士たちは、たからかに勝利の歌を歌いました。」
というところなど、美しくもおそろしいなぁ…と感じました。『指輪物語』のエルフの雰囲気だよなあ…って。私はあのお話では、エルフだけじゃなくてローハンの騎士とかも、美しくておそろしいと感じるんですけど。またそれとは違った人間離れした美しさ、おそろしさと言えるかもしれませんね。
ポーリン・ベインズの挿絵も、いい感じ。ポーリン・ベインズは絵本『ビルボの別れの歌』で絵を見ましたが、あのような色つきの絵じゃなくて、こちらは小さい小品向けのさし絵という感じがまたいいです。でも私は『トールキンズワールド』という本で見た、ロジャー・ガーランドという人の描いた、かじやの絵が好き。うっとりしたような顔つきで、どこかしらヨセフさまみたいな感じがします。
ハム村の農夫ジャイルズは、ひょんなことから巨人を追い返したことから英雄にしたてあげられて、竜を退治する役目を担うはめになるのですが…。
皮肉がきいた、軽めの面白い本でした。 ポーリン・ベインズの竜の絵がかわいい。
犬のガームがジャイルズに言う、
「ああ!北の丘のむこうのずっと先の、石柱が原なんかよりずっとむこうです」
の、<over the hills and far away
>という、<山々越えて遠方へ
>という言葉は、わらべ歌などにも出てくる、古い成句なんだそうです(吉田新一さんの『イギリス児童文学論』より)。
なるほど〜と思っていたのですが、読むときはどこが該当の個所か忘れていましたが。
(参考:ダイアリーの記述)
(追記)
参考:[237]『ドン・キホーテ』の感想に、ジャイルズの馬のことあり。
芸術的<準創造>ということの意味を、木の絵を描く画家のニグルに重ねて書いている。
ニグルの旅の最初のところは、煉獄を表しているのだろうか。
『指輪物語』に入っている詩とその他の詩。
[5]『第九軍団のワシ』 に続く、ローマン・ブリテン・シリーズの第2作。 でもシリーズといっても、べつに1とか2とかついているわけじゃありません。
ローマ帝国に支配されていた時代のブリテンを舞台に、ある青年の目を通して、歴史のうねりと、人間の生きていく姿を見つめている物語群だと思います。
これは日本語訳が出たのは1994年と、わりと最近です。
第3作の『ともしびをかかげて』が一番有名なようなのですが、今のところ、時間の流れにそって順番に読めているのが私には合っているようです。『第九軍団のワシ』より先に『銀の枝』を読んでいたら地理とか主人公の立場とかわからなかったこともあると思う。また、<木剣をもらった剣闘士
>とはどういう意味かとか、剣闘士が指を下げられる(グラディエーターを観た人なら分かりますね)とかも。
『第九軍団のワシ』で描かれた、軍団の失われた旗頭…翼のとれたワシの旗頭。その旗頭は現在、カレバ(今のシルチェスター)のバシリカの建物の発掘により発見されています。サトクリフはこの『銀の枝』でまたその旗頭に意味を与えます。『第九軍団のワシ』の主人公マーカス・アクイラの子孫、マーセルス・フラビウス・アクイラとそのいとこ(?)ジャスティンの目を通して、そのワシを掲げる者の誇りを見せてくれます。
また、この時代は、ローマ帝国がまだ気づいていない者が多かったのですが衰退へと向かっていく時期でもあったのでした。
二人がルトピエ(リッチボロー)の砦で仕えた皇帝カロウシウスはローマの属州でしかなかったブリテンで皇帝を名乗り、マキシミアヌス皇帝を怒らせたものの、その手腕で、同列の皇帝と認めさせたという人物。 彼は言います。
「もしわしが属州を強くすることができたら--ローマが滅びるときにも独り立ちすることができるほどに十分強くしておけさえすれば--暗闇から何かを救い出すことができるかもしれない。もしだめなら、ドブリスの灯も、リマニスの灯も、ルトピエの灯も消えるだろう。灯はすべて消えてしまうだろうよ。」
うーん…先見の明のあるお方…。ここらあたりが、次の『ともしびをかかげて』に関わってきそうですね。 (そして、調度、今夜から3週のNHKスペシャル・ローマ帝国のテーマにも興味がわいています)
いつもサトクリフの本はとても時間がかかり、これもまたしかりでした。が、ハラハラと逃亡ありサスペンスなところもありで、テンポも良く、楽しめました。
そして、今まで読んだ中で私の気になってしまう好みでない部分が薄くて良かった。犬が出ない。少女も出ない。父親のように大きな助けを与えてくれる人物…これは何人かの姿の中にかいま見られる。青年二人の友情…これはどうあってもサトクリフのテーマみたい。でもこの物語の二人はなかなかいい感じ。今までは、主人公はこれでもかとばかりに苦難を強いられ悲惨な目に合っても、すんなりと友情を得られ、援助も得られ、1作だけならともかく、似ている場面があると「またか」なんて思ってしまったのですが、これは読んでいてそれぞれの人物がとてもよく、読後感爽やかで、いい話だったなあー…と。
サトクリフは、歴史の中の無名の人物たちの、その生活や人生の積み重ねに意味を見つけ、またその積み重ねこそが歴史を作る--ということを見つめていると思います。
旗頭が失われ、また発掘によって発見され、その間の本当のことは、まだ誰にもわからないのでしょう。きっとサトクリフがこの物語で描いたようなことではなかったのでしょう。でも、遺跡に名前が残っている<槍の男>エビカトスだけでなく、ジャスティンやフラビウスという想像の人物のように、考え、生きた人物が誰にも知られずに過去にいたのかもしれないと考えるのは、感慨深いことです。
「もしおれたちが明日死んでも (中略) 命はとぎれず続いていくんだ」
という言葉が心に残ります。それは、べつに、アクイラ一族の物語だからというのではなくて、もっと大きな、人間の作る歴史というものを思わせる言葉だから。
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