北神戸 丹生山田の郷
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秀吉の足跡(播州三木合戦)(*34)(*35)(*36)(*37)(*38)

山田は攝津(摂津)国である。しかし山田の北辺の丹生(帝釈)山系を北に山越えした淡河(おうご)は、現在は同じ神戸市北区内だが江戸時代までは播磨国(播州)だった。さらに言えば摂津である山田までが畿内、その先播州から西は当時の分類では中国となる。

この隣国播州で、戦国末期、三木合戦と呼ばれた織田軍(羽柴秀吉(解説)軍)と三木城主別所氏を盟主とする播州の大多数の地元勢力との間に2年近い戦闘が行われた。

淡河から播州勢力の盟主である別所氏の居城であった三木城(釜山城)まで直線で約10Km(3里弱)、羽柴秀吉の本陣の平井山まで約8Km(約2里)。羽柴軍は三木城を完全包囲し別所軍を兵糧攻めして籠城軍の飢えを待った。別所軍は、中国の毛利氏、大坂の本願寺の援助により食料を入手しようと苦闘した。反織田勢力はその時織田信長に離反して伊丹有岡城に籠城していた荒木村重(解説)の支城花隈城(神戸市の元町)に食料を陸揚げし、再度(ふたたび)山を経由して山田の丹生山に運び三木城に送った。三木軍の支城である淡河城の城主淡河定範は、補給ルートの要である丹生山を守った。秀吉はこの補給ルートを潰すべく、弟の小一郎秀長に丹生山上の砦を焼き討ちさせ僧俗男女を殺させた。三木軍は降伏し、秀吉は城主別所長治の自刃と引換えに籠城軍を開放した。この間、山田の民衆も食料補給だけでなく、丹生山などで羽柴軍に抵抗し、播州勢を支援した。

山田から2里足らずの平井山に本陣を置いていた羽柴(後の豊臣)秀吉が山田に足を踏み入れたかどうかは定かではないが、戦闘指揮までしたかどうかはともかく、秀吉軍の軍師であった黒田官兵衛(当時は小寺官兵衛、解説)、竹中半兵衛(解説)とともに山田に足跡を残した可能性は高い。

「電子地図帳Z8より引用 c2005 ZENRIN CO.,LTD.」 三木合戦

当時の播磨と織田信長軍の状況

播州では、戦国末期のこの時期、かつての守護大名赤松氏が弱体化し、その守護代であった東播磨の別所氏(別所長治)と西播磨の小寺氏(小寺政職)を中心として数10の豪族が点在し、前時代からの勢力である小豪族同士の小競り合い程度はあったが、日本全体に起こりつつあった戦国・下克上の大変動の中では例外的な平和な状況が続いていた。一方、目を他地域に転じると、播州の西隣りでは毛利元就が広島の一地方の地頭から身を起こし、謀略と外交によって山陰・山陽の16ヶ国を制覇し、また尾張では、守護大名斯波氏の守護代となった織田氏の分家の更に分家からスタートした織田信長が、この時期、今川、美濃・斎藤、浅井・朝倉を倒し、武田勝頼に長篠の戦で壊滅的打撃を加え、足利義昭を追放して、その勢力は、尾張、美濃、近江、伊勢、志摩、山城、大和、河内、和泉、若狭、越前、丹後、そして播磨の東隣りの摂津の13ヶ国と飛騨、加賀、紀伊、播磨の一部を領有するに至っていた。

こうした状況の中、播州の大名・豪族も生き残りを賭けてその帰属を明らかにすることを迫られ、小寺家家老黒田官兵衛(後の黒田如水、この時期は主家から与えられた小寺性を名乗っていた、解説)の織田氏への働きかけ、播州国内での説得工作が功を奏し、一旦は、少なくとも表面的には、播州のほとんどの大名・豪族は、無血で織田氏に服属することになった。わずかに備前・美作国境に近い佐用の上月城・佐用城が宇喜多氏に属していたがために反旗を翻したが数日で陥落した。しかしながら内心では赤松氏、別所氏だけでなく黒田官兵衛の主家である小寺氏さえも、織田か毛利かを決しかねていた。

むしろ、播州の大部分の雰囲気は、「織田についていては危うい。毛利こそ頼みとすべき」であったようだ。そこには多分に以下のような「織田ぎらい」的な情緒的な理由が強かったようだ。

 しかしながら、毛利氏は という弱点があり、結果的にも上月城の奪還、大坂湾での海戦など一部の地域戦闘を除き最後まで三木城、(三木城離反後11月に信長に反旗を翻した荒木村重の)伊丹有岡城、大坂石山本願寺のいずれにも効果的な援護を行うことが出来なかった。

こういった状況の中、加古川で行われた中国攻めの評定において、(播州の地侍の感覚では)卑しき身分の秀吉の高圧的な態度に、播州のほとんどの地侍が別所氏を盟主として、織田氏に反旗を翻すこととなった。曰く、

『別所長治記』では、・・・「信長、浅智の故也。およそ大将を立つるには、その人を選ぶ事、第一也。・・・氏も無き人を大将にしては、諸人軽んずるものなり」(司馬遼太郎「播磨灘物語」(*38)

三木合戦についての資料としては、「別所長治記」などの籠城勢側からみたものと、「黒田家譜」など攻城勢側から見たものの2系統があって局地戦の勝敗が逆転していたりするが、以下では籠城勢側からの見方を中心とする「端谷城」(*34)(昭和48年前山純三・菅保著)、「探訪三木合戦」(*35)(平成8年福本錦嶺著)、「別所一族の興亡 「播州太平記」と三木合戦」(*36)(橘川真一著、織田側の資料も含め幅広く参照しバランスのいい内容となっている)、羽柴軍側からの視点の「史伝黒田如水」(*37)(昭和62年安藤英男著)などを参考にして記述してみる。

別所氏の反乱(天正6年2月(1578))

美嚢川の対岸から望む三木城跡(釜山城跡)結局、別所氏は(身分卑しき)秀吉の風下に立つのを潔しとせず、織田氏に反旗を翻した。加古川評定時点では既に毛利氏への帰順を決め、大坂石山本願寺、丹波八上城主波多野氏(別所長治の妻の実家)とも連携していたとも言われる。別所氏には東播州のほとんどの30有余の城(「史伝黒田如水」では45の豪族)が同調した。主要なものは以下の通り

高砂城・梶原平三兵衛景行、志方城・櫛橋左京亮伊則(祐貞、黒田官兵衛の義兄))、神吉(かんき)城・神吉氏部大輔頼貞(長則)、野口城・長井四郎左衛門(長重)、淡河(おうご)城・淡河弾正忠定範、魚住城・魚住、端谷(はしたに)城・衣笠豊前守範景、明石城・明石左近など
 一方、播州で織田氏(秀吉軍)に付いたのは、三木の別所氏の家老である阿閇(あえ/あべ)城の別所孫右衛門重棟(別所氏の一番家老である兄の別所山城守吉親(賀相)と対立関係)と西播州の小寺氏(といっても城主の小寺政職は動かず、一番家老である小寺官兵衛(=黒田官兵衛)が活動)、加古川城の糟谷武則など極わずかであった。

序盤の戦闘

加古川評定の後、実際の戦闘開始までには、以下のような経緯を経た。

最初の戦闘がいつどこで行われたか。別所方資料(*34)(*35)では、4月上旬に別所軍が羽柴軍の大村の駐屯地を夜襲し、羽柴軍が敗走、その後、秀吉が書写山に移ったとしている。一方、羽柴方資料(*37)では、4月1日、播磨灘から別府(べふ)の阿閇城に迫った毛利・雑賀連合軍8千を黒田官兵衛指揮の羽柴軍が撃退して別所軍側の高砂城の梶原景行、明石城・明石左近が降伏、4月3日(別所方資料(*34)では、別所軍の夜襲より後の4月13日)に数日の戦闘で羽柴軍が野口城・長井長重を降したとする。阿閇城の戦闘については、司馬遼太郎「播磨灘物語」(*38)にも記されているが、別所方資料(*34)(*35)には記述がない。一方、別所軍の夜襲については羽柴方資料(*37)に記述がない。

織田の援軍と上月城での対峙、神吉・志方の攻城

この間、毛利氏が一旦は羽柴軍が落とした備前国境の山中の上月城に向けて、4月に毛利全軍(毛利、吉川、小早川」を進撃させ、秀吉は信長に依頼して織田軍の支援軍を播磨に迎えたが、結局、信長自身は苦手な山中での戦闘を嫌って上月城を見捨てる決定をし、6月に上月城は陥落した。上月城陥落後、信長の長男の織田信忠を総指揮者とする織田の援軍は、神吉(城兵2千)・志方(城兵1千)の2城を10倍以上の大軍で攻め、それぞれ20日ほどで陥落させた(この攻城に羽柴軍は参加していない)。別所方資料(*34)では、神吉・志方両城とも勇戦し織田軍をさんざん悩ましたとしているが、あまりに勝手の違う戦いになすすべもなかったのではないだろうか。この織田の援軍について、別所方資料(*35)では、秀吉が別所軍の奮戦に手を焼いて派遣を依頼したとしているが、さすがに毛利氏との対峙に向けた対応という方が真実だろう。

高砂城の戦い

別所方資料(*34)(*35)では、高砂城の戦い(時期は書かれていない)において羽柴軍が高砂城の城兵と毛利輝元自らに率いられた3千5百の毛利の援軍に挟まれて惨敗したが、毛利軍はさらに進軍するか否かについてその時ではないとして引き上げた、としている。これに対応しそうな羽柴方資料(*37)の記述は、前述の阿閇城の戦闘かと思われるが、その勝敗については180°異なる結論となっている。同じ事象だとすれば、別所方の言い分には城兵を鼓舞するための大本営発表の匂いがある。

三木城の兵糧攻め(三木の干殺し)

中央の三木城を囲む秀吉軍。右端が秀吉の平井山本陣(三木城跡)織田信忠らの援軍が三木城の支城の大部分を陥落させ8月17日に引き上げた後、秀吉軍は織田軍の常套手段(石山本願寺、丹波八上城など)である長期包囲による兵糧攻めを推し進めた。いずれの書籍でも兵の強さでは播州勢が羽柴勢よりも強かったとしており、籠城軍7千5百に対しほぼ同数の8千の羽柴軍は三木城を遠巻きにするしかなかった。これから翌々年の天正8年正月17日(1580)までの1年5ヶ月、開戦からは1年10ヶ月の兵糧攻めが続くことになる。別所方資料(*34)では、羽柴軍の軍師竹中半兵衛による鉄壁の包囲網としている。あくまでも秀吉を認めたくないという気分で竹中半兵衛を持ち上げているということもあったかもしれない。なお、この3ヶ月後の11月、黒田官兵衛は、信長から寝返った摂津の荒木村重を説得に伊丹に赴いて捕らえられ、伊丹有岡城が織田軍により陥落する翌天正7年10月(1579)までの1年間、有岡城に幽閉されることとなる。

平井山合戦

平井山合戦図(三木城跡)天正7年2月6日(1579)、後に平井山合戦と呼ばれるようになる戦闘が行われた。別所側の一番家老別所山城守隊の2千5百が羽柴軍に正面から決戦を挑み敗色濃くなったときに、後陣に控えていた城主別所長治の弟、別所小八郎治定隊の7百が、秀吉の本営平井山に攻めかかったものの力及ばず別所小八郎は戦死、別所方8百の戦死者を出した(*34)

丹生山ルートの食糧補給と明要寺焼き討ち

丹生山明要寺焼討ち(三木城跡)前置きが長くなったが、ようやくここで山田の里が(わずかではあるが)登場する。別所氏を支援する毛利氏など反織田陣営はせめて三木城に対する食糧補給だけでもと必死の努力を続けていた。天正6年11月(1578)に荒木村重が織田から毛利方へ寝返ったことから、荒木氏の支城花隈城(今の神戸市中央区元町付近、荒木氏が寝返る少し前、毛利氏の海からの襲撃で陥落しているため、毛利軍も入っていたかもしれない)に食料を荷揚げし、再度山から丹生山を経由して三木城への補給ルートを確立した。丹生山には食糧貯蔵倉庫も設けられ明要寺の僧兵に守られて食糧補給の中継基地になっていたらしい(*36)。再度山から丹生山までが山田村内のルートとなるが、具体的なルートははっきりしない。再度越経由で現在の上谷上あたりへ出て、山田川沿いか丹生(帝釈)山系の尾根沿いに丹生山まで、さらに丹生山から淡河城経由、淡河川沿いか丹生山から尾根筋を西へ向かって三木城まで運んだということか。食料の運搬には毛利・雑賀の兵、明要寺の僧兵の他、淡河の領民も協力したといわれ、また山田の一向宗徒などが協力したという話もある。

この補給ルートを羽柴軍が発見した。天正7年5月22日(1579)、秀吉は弟羽柴秀長に丹生山を夜襲させ、激しい風雨の中、明要寺の僧坊・陣所を焼き討ちし、城兵・僧兵だけでなく明要寺の僧・稚児も谷に落ちたり皆殺しにされた。稚児ヶ墓山花折山の名前にこのときの悲劇の言い伝えが残る。なお、この焼き討ち後も食料運搬ルートは残り、細々と三木城への補給が続いた。秀吉は再度越と丹生山の中間に関所を設け、監視を続けた。(*36)

淡河城の合戦

淡河城本丸跡。右奥が天主台の稲荷神社。左奥は「道の駅淡河」から見える観光用の櫓丹生山焼討ちの5日後の5月27日、羽柴秀長を総大将とする500騎の軍勢が三木城への糧道のひとつでもある淡河城に攻め掛けた。城主淡河弾正は落とし穴、馬防柵、撒き菱、逆茂木などをあらかじめ準備し、秀長軍を城に引き寄せ縦横の奇策によって善戦した。特に圧巻は、買い集めておいた50〜60頭の馬を敵の騎馬に向けて放ち、敵の馬が乱れ狂って四方に走り出したところに城内から攻め掛かり、秀長軍に大勝した。が、奇策がいつまでも通用するものではないと三木城に引き移った。そうとは知らずに翌日攻め込んだ秀長軍が見たのは焼け落ちた城だけだった。(*36)

平田・大村の合戦

補給ルートがほとんど羽柴軍によって絶たれた三木城からの「食料尽きた」との急報を受け、9月に毛利氏は数百隻の船で食料を魚住城に荷揚げし、9月10日、雑賀衆など8000人で三木城への搬入を試みた。三木城の北西2Kmほどの大村の近くまで来て羽柴方の平田の砦に襲い掛かり、守将谷大善を討ち取るなど大きな戦果を挙げ、城方からも3千騎が打って出たが、羽柴方も本陣の千騎などが応援に駆けつけ、結局、食料もほとんど補給できずに約900の将兵が討たれ、三木方は壊滅的な打撃を受けた。この戦いで淡河弾正も5人になるまで奮戦後、自刃して果てた。(*34)(*36)

三木落城

別所長治の辞世の句の碑(三木城跡)「今はただうらみもあらじ諸人の命にかはる我身を思へば」天正8年の正月(1580)を迎え、食料の尽きた城内では、犬、馬、鼠から松の皮、雑草まで食し、数千人が餓死した。この状況を見て秀吉は正月6日から本城を囲む宮の内の砦、鷹の尾城(11日)・新城を落とした。城主別所長治は最後の決断をし、自身の命と引き換えに城兵・領民の助命を秀吉に嘆願した。(これについては、長治からではなく秀吉から申し出たという説もある)。これを受けて、秀吉から送られた酒樽と肴で別れの酒宴を催し、正月17日、別所一族が自刃して三木合戦は終焉を迎えた。なお、実質的に織田への反逆を決し、三木城をはじめ諸豪族を含め1万以上の運命を悲惨な敗北に導いた別所氏の一番家老別所山城守は、最後まで降伏を潔しとせず、昨日までの味方であった城兵に討ち取られた。(*34)(*36)

山田の伝承

三木合戦に付いては、丹生山焼討ち以外にも、断片的にいくつかの伝承が残されている。冒頭述べたとおり、山田は摂津国で荒木村重の領土であり、また一向宗の勢力が強かったこともあり、特に荒木村重が織田信長に反した後は、領民レベルでも三木城を積極的に支援していたようだ。

(参考)このページに関するリンクページ

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