北神戸 丹生山田の郷
Top Page

山田 Top

下谷上(しもたにがみ、 約25.0Ku、地図名前の由来(*21)

弓削牧場小部を包み込むような格好で神戸市兵庫区境界の北側から神戸電鉄・北神急行の谷上駅の北部までの広大な地域に展開している下谷上には、源義経で有名な鵯越農村歌舞伎舞台などの史跡・文化財、しあわせの村関連リンク)、六甲山森林植物園外人墓地など神戸市が運営する施設・観光スポットや、この近辺の乳製品のブランドである弓削牧場(関連リンク、写真左)などが数多く点在している。

下谷上の大部分は山間部で、兵庫区、中央区との区境付近に六甲連山の一部を構成する菊水山鍋蓋山、再度山や高尾山、石楠花山など400〜650m級の山が連なる。また、最北部には、丹生山系の一部の金剛童子山(565.6m)もある。

菊水山の約2.5km南西にある、鵯越墓苑・ひよどりごえ森林公園は、源平合戦一ノ谷の戦の「鵯越(ひよどりごえ)の坂落し」で有名な場所。

蛙岩特に南北3Kmにおよぶ鵯越墓苑内には、義経が進軍の途中で休憩のために馬を繋いだと伝えられる高尾地蔵院境内の「義経馬(または駒)つなぎ之松」、進路を鵯越から一ノ谷に変更したとも、兵を二手に分けたとも言われる奇岩「蛙岩」(写真右)、平盛俊が守る古明泉寺を見下ろす墓苑南門の鵯越の碑など多くの義経伝承の場所を残している。

蛙岩は、複雑な形に風化した大岩盤が数匹の大蛙と多くの子蛙に見える奇勝で、夜になると巨大な蛙が旅人を襲ったとも、毎日1匹の蛙が生まれ出たとも言われている。右の写真の左側の平家陣地方面を見ている蛙の頭のような岩が一番代表的な蛙岩で、現在も道標も無く見つけにくい山道の途中でハイカーの行く手を阻んでいる、とまでは言わないが、義経の騎馬隊にとっては進軍しにくい場所だったのではないかと思われる。

箕谷駅の北10分ほどの所にある天彦根(あまつひこね)神社には江戸時代に農村歌舞伎や人形浄瑠璃が上演された国の重要文化財の下谷上舞台がある。

「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*20)によれば、小部の東・南側にあたる山地(中一里山)は、江戸時代、数度にわたる領地紛争(中一里山紛争)を経て、下谷上領となった。

《社寺・史跡》(*21)

天彦根神社天彦根神社(創立不詳、写真右)

神域には老樹が多く起源は相当に古いものと思われる。
境内には国の重要文化財指定の農村舞台がある。

箕谷神社関連リンク

慶安5(1652)、京都大原野神社を勧請して壽福寺住職により開眼したとされている。境内社の白竜大明神は商業に利益があるとして遠近からの崇敬者を集めている。夏の餅まき、秋の甘酒と畦豆の接待の祭礼が行われている。

壽福寺(天平6年(743) 行基(解説)の開基と伝えられる)壽福寺 宝篋印塔

新神戸トンネルの高架の東、有馬街道と神戸電鉄にはさまれた狭い地域に昔の城館のような石垣の意外に大きな寺院が壽福寺。広い境内の北側に南北朝から室町、江戸に渡る大小5基の宝篋印塔(解説、左の写真)や33体ある江戸時代の地蔵尊などがある。

本堂内陣の行基作と伝えられる薬師如来を中心とした十二神将を始め、平安・鎌倉・室町期にわたる多くの仏像群を収める。

室町時代作の十六善神(大般若経の本尊)と経巻600巻を完備し、毎年成人の日に大般若経法要が行われる。

焼餅地蔵やきもち地蔵(焼餅地蔵、江戸末期)

現在の山の街の有馬街道添いで、山田川上流の地。石積みの緩んだ土橋の修理をするように夢枕に立ち、その石積みの中から出て来たというのが由来。ちょうど正月のことだったため餅を焼いて供えたので焼餅地蔵の名がついた。一時、紛失し、再度作ったが、その後元の地蔵が盗んだものによって戻されたため現在、2体ある。

(参考)このページへのリンクページ

Top Page