神戸電鉄 〜北六甲地域 鉄道発展のあゆみ〜(*23)(関連リンク)
昔から神戸に住んでいる人の中には、みなと神戸と北六甲地域を結ぶ神戸電鉄のことをいまだにシンユウ(神有)電車と呼ぶ人がいる。大正15年に神戸有馬電気鉄道として設立され、昭和22年にミキデン(三木電気鉄道)と合併して神有三木電気鉄道となった後、昭和24年に神戸電気鉄道に変わるまでの時代の名残である。
慶応3年(1868)に兵庫港が開港し、活気づく神戸から六甲連山を越えた北六甲地域では、近代化から取り残されまいと鉄道敷設の試みが繰り返されてきた。明治以来の北区発展の歩みはこの鉄道の歴史と軌を一にしてきたと言っても過言ではない。
現在、北区の行政・交通の中心となっている 鈴蘭台地区の発展は、神戸電鉄(神有電鉄)の草創期に、経営安定のための乗客増加策の一環として、「関西の軽井沢」のキャッチフレーズで昭和3年から分譲が開始された住宅地の開拓にその端を発している。
大正15年に設立され、昭和3年に湊川−有馬間(22.5Km)で営業を開始して以来、幾多の難工事、経営難を潜りぬけ、神有電車(神戸電鉄)は、今や南は新開地で阪急・阪神・山陽電車と接続し、北はJR三田(さんだ、三田市)、西はJR粟生(あお、小野市)まで延伸し、総延長69.6Kmの北六甲地域になくてはならない大動脈として北区の発展を支えてきた。
(右の写真は神戸電鉄発行の”スルッとKANSAI”「すずらんカード」)
北六甲地域の鉄道交通の発展は北側の三田方面から始まったが、工事の困難さなどから多くの建設計画が幻に終わった。その幾多の計画の中で大正4年、北区地域最初の鉄道が三田−有馬間で営業を開始した。
「有馬線」を建設した有馬鉄道社長の山脇延吉は、その後、神戸電鉄の前身である神戸有馬電気鉄道の社長となり、数々の困難を克服し、昭和3年湊川−有馬間の営業開始にこぎつけ、また、同年、乗客を増やすために小部に電鉄経営の住宅地を開拓し鈴蘭台の名前で売り出した。しかしながら、建設時の借金が重圧となり経営責任をとる形で開業間もない電鉄の経営の第一線を退かざるを得なかった。この道場銀行頭取であり、有馬郡会議員、兵庫県会議長、帝国農会副会長などを歴任した山脇延吉が神有電鉄、神戸電鉄そして北六甲地域の鉄道の発展の第一の功労者であることは疑いのないことであるようだ。
有馬線が開業した頃、山田町や淡河町でも交通の便の改善を目指して摂播軽便鉄道の建設計画が進められたが、結局は会社側の問題で”幻の鉄道”に終わった。
もし、この計画が実現していれば、北区の中心は西下になり、小部・鈴蘭台よりも藍那の方が発展していたかもしれない。
大正2年に鉄道院に提出された鉄道建設許可申請によれば、そのルート(地図)は、国鉄兵庫駅を起点とし、長田区、長田神社北方の山間を大日、藍那と北上、西下で三木支線と分岐して、中村、原野、下谷上、上谷上を経て三田街道沿いに唐櫃(からと)から国鉄三田駅へ。また、西下で分岐した三木支線は、衝原を経て三木街道沿いに西進して三木へ。さらに有馬支線が、有野町五社から有馬へ達するものであった。
その後、淡河(おうご)町からの強い要望で、西下での分岐を撤回し、志染(しじみ)で三木支線と分岐し、淡河、八多(はた)を経て三田、有馬に達するルートに変更されたものの結局は会社側の問題で”幻の鉄道”に終わった。
なお、このころ、バス路線の開拓も盛んに行なわれ、大正2年には東洋自動車が三田・−有馬間で、大正7〜8年には三田自動車が三田−唐櫃間で、大正10年には有宝自動車が有馬−宝塚間で開業したが、いずれもすぐに消えてしまった。その後、大正14年には、神戸有馬乗合自動車が神戸の平野−有馬温泉間に、また翌年には八多−有馬間、吉川(よかわ、美嚢郡吉川町)−山口(西宮市)間にバス(幌をかぶせた5、6人乗りのオープンカー)を走らせた。
大正11年11月に道場町の山脇延吉らが有馬電気鉄道株式会社の名称で、有馬温泉から上三条町に至る天王越えの鉄道敷設免許を申請した後、大正15年会社設立、昭和2年起工、昭和3年11月に湊川−有馬間が開業した。
しかし、開業にこぎつけるまでの道のりは、環境問題、不況、難工事、労働争議など苦難の連続で、これを成し遂げたのは、北六甲地域の発展への熱意を背景とした実業家で政治家でもある山脇延吉の献身的な努力、それを支えた建設工事担当の日本工業合資会社の強力なバックアップとともに、過酷な労働条件のもとで難工事を成し遂げた朝鮮人労働者の力が大きかった。
湊川−有馬間23Kmは、海抜10mの湊川駅から357mの有馬駅までほとんどが海抜200〜300mの山間部の渓谷沿いで、35/1000以上の勾配が58%を占めている。
中でも、湊川から海抜278mの鈴蘭台間は、わずか7.5Kmの区間で268mを登る上、六甲山特有の花崗岩質で普通一日約100m進むところを20〜30mしか進めない難工事区間だった。
このような難工事区間をわずか1年7ヶ月で完成できた影には、昼夜を分かたぬ突貫工事を成し遂げた1300人の朝鮮人労働者の過酷な労働があった。
乗客を増やし、神有電車の経営を安定させるために、山田町小部に住宅地が開発された。「関西の軽井沢」というキャッチフレーズで売り出された住宅地に合わせて、駅の名前は、小部駅から健康の花言葉「スズラン」の名前を取って鈴蘭台駅に変更された。
山脇は、神有電車の経営は有馬温泉の湯治客だけではなく、沿線に住宅・学校を張りつけ人口を増やすことが必要であると考え、そのキーポイントを山田町小部と見ていた。
海抜278mで神戸の海側に比べて、夏場で3〜4℃低い高原的風土を活かせば、「関西の軽井沢」というキャッチフレーズで避暑地として売り出せる。山田村村長も発起人に名を連ねた創立趣意書に小部の電鉄経営の住宅地開発をうたい、駅を中心とした約40万坪(130万u)の宅地を確保し、電鉄開業直前の昭和3年9月に行った全体の1/4を対象とした第1回分譲で7割に売約が成立した。
また、この沿線案内に描かれた「沿線名所交通図」に書かれている当時の駅名は、湊川〜長田〜鷹取道〜鵯越〜小部〜箕谷〜となっており、現在の丸山・鈴蘭台は当初鷹取道・小部で、菊水山・北鈴蘭台・山の街はない。
電鉄開業時には民家数件にすぎなかった駅前に昭和5年6月には商店・住宅23件が立ち並び、「小部」という駅名も公募により別荘のイメージにあう健康の花言葉「スズラン」の名前を取って「鈴蘭台」に変更された。
戦前から戦後にかけて、何回かの経営危機を乗り越え、神有電車は開業時の湊川−有馬22.5Kmから総延長69.6Kmの北区・北六甲地域になくてはならない交通インフラとなっている。
電鉄は開業し、鈴蘭台は開発されたが、会社は建設時の借金が重圧となり、住宅地開発の折に六甲を越えて引いた電力料金の支払もままならない状況で、社長の山脇は、売れ残った土地を宇治川電気(現 関西電力)に引渡し会長に退かざるをえなかった。
昭和6年に神有電車の専務に迎えられた日本興業銀行神戸支店の副支配人入江芳之助により、「三木線(鈴蘭台−三木)の新設」、「沿線の農地を神戸への野菜供給基地として終電後に野菜を運ぶ野菜電車を走らせる」、「沿線の池・河川で釣客誘致のために養魚をする」などが実行に移され、慢性的な赤字経営からの脱却することができた。
特に昭和13年に開通した三木線は、資金難のため、当初神有電車が保有していた敷設免許を昭和11年に神戸市長を社長として設立した三木電気鉄道に譲渡して同年8月に着工した。同年内に完成しなければ補助金が切れるため、鈴蘭台−広野ゴルフ場前間13.5キロに鈴蘭ダンスホール前(現鈴蘭台西口)はじめ8駅を開業したが、架線工事が間に合わないため苦肉の策で広島の芸備鉄道から借りた28人乗りのガソリンカーを運転して開通とした。ようやく昭和12年4月に電車運転を開始したが、広野ゴルフ場前−三木間は連結自動車を走らせた。この突貫工事の中でも、藍那トンネル建設工事での6人をふくめ13人の朝鮮人労働者が亡くなっており、現在も神戸電鉄の協力を得て追悼行事が行われている。(*23、平成8年刊)
戦後、昭和22年にこのミキデンを吸収して神有三木電気鉄道と改称後、三木−粟生間延伸が認可された24年に神戸電気鉄道となった。戦後の混乱が収まって都心部が復興し、疎開者や食料の買出しも減り、一時は神戸市への一括売却、自動車路線への転換などの話も出たが、昭和30年代の都市への人口集中に伴う沿線の開発の波の中で、阪急電鉄(当時の京阪神急行)から経営陣を迎え入れ、沿線の需要の増加に対して輸送力を高めていった。
昭和39〜41年に有馬口−湊川間の複線化、昭和43年に湊川から阪急・阪神・山陽電車の走る新開地に乗り入れ(神戸高速鉄道に譲渡)、平成8年には横山から分岐する公園都市線が、三田市の新しいベッドタウンウッディタウン中央駅まで延伸して、現在の神戸電鉄の総延長は、神戸高速鉄道が経営する湊川−新開地0.4Kmを含めて69.6Kmに達する。