■栗田 彰■
■『江戸名所図会』 (えどめいしょずえ)
江戸時代後期の江戸の地誌。1789(寛政元年)から江戸神田雉子町の名主・斎藤幸雄が編纂著述し、その子・幸孝が補修、孫の幸成が1836(天保7年)に板行した。全部で7巻20冊。当時の江戸市中と近郊の神社仏閣、風俗や行事を絵入りで伝えている。実地検証にもとづいて書かれているので学問的にも優れており、江戸の風俗研究には欠かせない地位を占めている。

■『名句江戸川柳』 (めいくえどせんりゅう)
岡崎淑郎の編により1948年4月15日発行(弘學社)。約1000句が集録されている。編者は「江戸川柳の代表的名句を盡して大方の研究に資し少なくとも江戸川柳の眞の味を識つて戴きたい、そして更に新しい話題と潤とを與へたいといふことが本書を編集した意圖なのである」と述べている。

■『御府内備考』 (ごふないびこう)
江戸幕府が1810(文化7)年、大学頭・林述斎の建議を入れて昌平坂学問所の中に史所を設け、地誌の編纂を行ない、『新編武蔵国風土記稿』、『新編相模国風土記稿』などを編纂した、いわば官撰の江戸の地誌書の一つ。正編145巻、続編147巻、付録(1巻)から成っている。

『新編御府内風土記』編纂の際に、参考資料として収集した資料を編録し、1829(文政12)年に完成、正編は「江戸総記」から始まり、地勢、町割り、屋敷割りなどが、続編は寺社関係の資料を収めている。古記録、古文書や町名主、旧家、寺社の書上げなどが主に収録されている。「御府内風土記」は1872(明治5)年の皇居火災で焼失した。下水関係は、全ての町ではないが、幅・長さ・構造(石組・木組・箱下水・埋下水など)・流れの方向などが記されている。

なお、現在一般的に読むことができる活字本は、正編の『御府内備考(雄山閣)』と続編の『御府内寺社備考(名著出版)』。

■『沽券絵図面』 (こけんえずめん)
沽券図とも言う。現在の土地台帳に相当し、町の中の屋敷地の大きさ(間口・奥行)、地主名、その土地の家主(地主から管理を任されていた)名、その土地の売買価格を書き込んだ絵図面。ほとんどの「沽券図」には町名、道路の幅・長さや町境の下水の幅、下水橋(石橋・土橋・橋・下水蓋などと表記)も描かれている。1枚の沽券絵図はだいたい畳2枚分くらいに相当する大きさ。

■『柳多留』 (やなぎだる)
江戸中期に江戸の川柳点者・柄井川柳(からい・せんりゅう)によって創始された風俗詩である「川柳」の選集。正式には『誹風柳多留』。

1765(明和2)年の初編から幕末の1838(天保9)年刊の167編まで続いた。初編から22編までは呉陵軒可有(ごりょうけん・かゆう)が編纂し、以下、多くの編者に受け継がれた。『万句合』(まんくあわせ)の中から前句を省いても意味の分かる17音字(5・7・5)の句を集めたもので、これにより川柳という一句独立した文芸が確立した。とくに初編から24編までは川柳の範とされた。なお、川柳という言葉が定着したのは明治に入ってからとされている。

■『俳諧ケイ』 (はいかいけい)

川柳集の一つ。初篇は1768(明和5)年刊。終刊の30篇は1831(天保2)年刊。
「ケイ」の漢字は、金偏につくりは上から「山」「焦の点のないもの」「凹の下線のないもの」という字のため、多くの川柳本は「俳諧ケイ」と表記している。
※『川柳江戸名物案内』(花咲一男/三樹書房) から引用。

■『玉柳』 (たまやなぎ)
1787(天明7)年に柄井川柳が選をした句集の一種。

■『寛政六年』 (かんせいろくねん)
1794(寛政6)年の万句合に入選した句。

■『藐姑柳追』 (はこやなぎつい)
1785(天明5)年に刊行された川柳集。「追」は最後に掲載されているので「追加句」の意味と思われる。

■『守貞謾稿』 (もりさだまんこう)
1853(嘉永6)年頃に完成されたといわれる江戸風俗誌。著者は関西から江戸へ移住した人で、江戸と京坂の風俗全般を比較記述している。

*参考文献*
  『万有百科大事典』 (小学館)
  『日本史広辞典』 (山川出版社)

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