北神戸 丹生山田の郷
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坂本(さかもと、 約5.9Ku、地図(*21)(*26)

丹生神社 福地無動寺の村であるのに対して、坂本は丹生山の村と言うことが出来そうだ。

山田川(志染川)沿いにへばりつくようにしてある小さな集落の背後には、丹生山田の地名の起こりである丹生山(515m、名前の由来)とその丹生山にあった明要寺の奥の院として帝釈梵天の祭られていた帝釈山(586.1m、名前の由来)の2つの頂を持つ。坂本と言う地名は、比叡山延暦寺の麓の近江の坂本(大津市)、その繁栄振りから西の比叡山と言われた書写山円教寺の麓の坂本(姫路市書写)などがあるが、山田の坂本も福原(神戸市兵庫区)に別邸を構えた平清盛(解説)が、比叡山(鞍馬山の説もある)に見たてて復興したと言う丹生山明要寺(明治維新に廃寺)のお膝元である。これら3つの『比叡山』がいずれも秀吉に縁(比叡山、丹生山は秀吉(織田軍の焼き討ちにあい、書写山は播州攻略の基地となった)の場所というのも何かの因縁を感じさせる。また丹生神社(写真右)は、明要寺の鎮守社でもあったが、明要寺以前に帰化人丹生氏族が拓き、神宮皇后伝説(解説)を生んだ歴史ある神社である。

坂本の地蔵 25丁石 丹生宝庫正面 丹生宝庫 丹生宝庫

丹生山参道の入り口でもある坂本の集落には、一時は2,000人の僧兵を擁した明要寺の遺品を納める丹生宝庫(上の写真右の3枚)があり、清盛が寄進した「明要寺全図」や「当山景画大幅」など多数の宝物が所蔵されている。

丹生宝庫から少し進んだ参道の真ん中には地蔵尊が建っていて、その地蔵(左上の写真)が清盛が福原から明要寺まで1丁毎に立てさせたという丁石(解説)の第25丁石を兼ねている。

豊臣・徳川の時代から昭和の戦後まで銅を産出していた帝釈鉱山は、丹生山登山道(参詣道)の中ほどから右へ分岐する山道を辿った帝釈山の山懐に眠っている。

《社寺・史跡》(*21)  

丹生神社(欽明天皇2年(541)創建?)

丹生山明要寺(明要元年(541) 開山?)

現在は跡地に石碑のみ建っている。

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