北神戸 丹生山田の郷
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清盛の参詣道(烏原谷越(解説)(*26)

「電子地図帳Z[zi:]Vより引用 c2000 ZENRIN CO.,LTD.」 烏原谷越

仁安3年(1168)、前年に太政大臣を辞任した平清盛(解説)は、病気を契機に本拠を神戸の福原(兵庫区)に移した。

それから12年の治承4年(1180)、福原・平野に山荘「雪の御所」(雪御所/雪見御所)を構えた平清盛は高倉院や平家一門の反対を押し切って福原遷都を決行した。

遷都に当って清盛は丹生山を比叡山になぞらえ、当時、衰微していた山上の丹生寺(後の明要寺)を復興し、平野から烏原川を遡り、現在の鈴蘭台を通って長坂山を越え、東下を抜けて丹生山に至る参詣道を拓いた。この道が「烏原谷越(からすはらだにごえ)」であり、清盛はこの烏原谷越を通って毎月丹生山へ月参りをしたと伝えられている。結局福原京は半年しか続かず、清盛も翌年には亡くなってしまったが、今でも清盛が烏原から丹生山まで山道の左側に1丁(約109m)毎に立てたと謂われる丁石が丹生山の参道に25基ばかり残っている(写真下、丹生神社坂本参照)。

全行程20km、清盛が輿に担がれて丹生神社まで参詣したであろう烏原谷越は、山田と兵庫を結ぶ幹線として薪・炭・農作物が兵庫へ、肥料・日用品が山田へ運ばれ、中間点の一本松(鈴蘭台駅の南)にはそれらの品々を物々交換する「替え場」も出来た。その後、明治7年(1874)に拡幅整備された天王谷沿いの有馬街道にその地位を譲り、また烏原川沿いの谷を神有電車(現在の神戸電鉄)が通るようになってからは、現在は部分的にハイキングコースとしてその痕跡を残しているもののすべてのルートをたどることは出来ない。

なお、清盛が福原京遷都をした際、京になぞらえたのは丹生山だけではなく多くの京の風物を新都に移し衆人の意識を新都に向けようと苦心した。山田の隣村、唐櫃(からと)村(地名の由来)を大原にみたてて京都八瀬の民を移し、北野村(中央区北野町)に北野天満宮(関連リンク)を、春日野(中央区筒井町)に春日明神を、熊野権現を夢野村に、妙法寺(須磨区)を鞍馬に摸して新鞍馬寺として鞍馬寺の毘沙門天を勧請したと謂われている。(唐櫃(からと)の多聞寺を鞍馬にみたてて寺領を与えたとの言い伝えもある(*33))

丁石

丹生山に今も残る丁石(左から24丁石、11丁石、11丁石の道標、山頂の丁石

「烏原谷越のルート」妙号岩

平野の「雪の御所」から石井川(上流が烏原川)を遡り、明治37年(1904年)に烏原貯水池となって100戸が湖底に水没した烏原村を通り、烏原川沿いに菊水山の西の谷を北進する。

上向き地蔵途中、石井ダムのダム湖西側の岸壁に、文久年間(1861-63)西小部村極楽寺の修誉諦善和尚が往来の安全を祈って刻んだと伝えられる1字1.2m四方の「南無阿弥陀仏」の文字の彫られた妙号岩(写真左)がある。この妙号岩の下の烏原川沿いの元の道は石井ダムの底に水没し、現在はダム湖沿いに神戸電鉄の鵯越駅からダムの階段を登って鈴蘭台駅方面に通じる道が新設されている。

烏原谷越は更に北進し、現代の鈴蘭台、鈴蘭台西口駅を経て、北五葉2丁目の「上向き地蔵」(写真右)北の信号を北西に進んで泉台を抜け、長坂山に進む。かつて主要道だったこの道も今は獣道のようになっている。

長坂山を越え、寄龍谷池の横を下りて行くと山田川沿いの東下・七社神社に出る。七社神社の西、500mの丹生神社の鳥居から丹生山上の丹生神社までの山道が続く。

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