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 フォト・レポート
【ルポ 1】
●『粟国の塩』10周年記念イベント
盛大に『粟国の塩』10周年記念イベント
島内外から270人余りが集まり、祝う
沖縄海塩研究所(小渡幸信所長)主催の『粟国の塩』10周年記念イベントが2005年2月19日、沖縄県・粟国島の塩工場と粟国村総合センターで行なわれた。

小渡幸信(おど・こうしん)さんが自然海塩の研究に取り組んで31年。『粟国の塩』として開発・発売して昨年9月で10周年を迎えたのを機に、ユーザー、取引先、関係者ら全国から約70名、県内・島内から約200人、計270人を招いて、工場内での祭事から始まり、午後は総合センターに会場を移して、午後10時近くまで盛り沢山のプログラムが消化された。雨模様の中、準備作業が行なわれた前日からの動きをルポした。
*司 加人=写真も
残念ながら天候には勝てず………
【2月18日=前日】
“アジアの十字路”は言い得て妙だ
粟国島に入ったのは前日の2月18日。初めてフェリーで那覇から島に渡った。
発券場で切符を求めた際、白板の19日のところに、「塩関係150名乗船」と書いてあった。本島からフェリーで参加する人たちの員数だと理解した。
船内に入ると、新しいだけあって、清潔で思った以上に広い。客室は2層になっていて、下は床式で、船酔いなどの心配がある人は横になれる。すでに備え付けの毛布をかぶって寝ている人もいた。上階はイス席で、3列にイスが設けられ、前方中央にはサロン式のソファが置かれ、家族連れやグループ用に作られている。
那覇市の海の玄関口・泊港(通称:とまりん)から村営フェリーの「粟国丸」(451トン)は午前9時55分の定刻に3回の汽笛と共に出航。いささか半端な出航時間。以前は確か10時だたったと記憶しているが、隣りのバースから出る慶良間行きのフェリーと時差を設けるため5分繰り上げたらしい。


泊港の波除け堤防の内側には“アジアの十字路・那覇”と書かれた看板がかけられており、それを右に見ながらフェリーはいよいよ東シナ海へ出る。その瞬間、港内とは違う揺れ方を感じた。

どれくらいのスピードかは定かではないが、粟国島は那覇市の北西約60キロにあり、それを約2時間で走るのだから時速30キロという計算になる。左側の慶良間諸島の島影が濃くなり、20以上の島がある慶良間の姿は刻々とその姿を変える。その先に緑の陰が見えたが、船員さんに聞くと無人島とか。右側はかなり進んでも本島の影が長く延びている。曇天模様で、海の色は残念ながら沖縄らしさがない。

海側から見た粟国港入口の巨大なテトラポット群
後部甲板や上部甲板に出たり入ったりしているうちに1時間30分ほど走ったあたりで前方に目指す粟国島の島影が見え始めた。進むにつれ右端には長浜ビーチの白い砂浜がはっきりと、左端には約90メートルの断崖絶壁のマハナ(筆ん崎)とその上にある見晴台や灯台の影が見える。さらに近づくとほぼ中央部に粟国港のたたずまいが有視できる。

そして、ほぼ定刻の12時過ぎ、短い汽笛を発しつつ、粟国港の突堤を少し左から右へ入っていく。それにしてもこの突堤に置かれたテトラポットの大きさは他に例を見ない。さながらジャンボテトラとでも言おうか、まるで海の要塞だ。これまで陸上から突堤には何度か行ったが海上からの眺めはまったく異なる。目を奪われているうちにフェリーはゆっくりと接岸した。

乗船者は50人くらいだろうか、下船すると同時に迎えにきていた人たちやフェリーに積まれていた荷物を受取る人や車がキビキビと動き始める。
フェリーにイベント用の最後の荷を受取りにきた沖縄海塩研究所の何でも屋の奥原 潔さん(実に頼もしい人であり、その接客態度はスバラシイ)のお迎えを受け工場へ。事務所には3人の女性が。馴染みの事務の木村裕子さんと小渡さんの末娘の美代子さんのほかに、なんと実質社長(小渡さん失礼!)の明美夫人だ。みなさん、さぞ血走った目をしていると思いきや、そこは腰の据わった沖縄の女性(注=木村さんは関西出身だけど沖縄、なかんづく粟国島に憧れて住みついた人)、どっしりと言うかおっとりと言うか、いつもの見慣れた笑顔で迎えてくれた。

ありあわせの資材を応用して舞台の基礎づくり作業をする小渡さん(中央)たち
長靴に履き替え、資材運びを手伝う森本さん。翌日はパネラーも勤めた………
そのうち雨模様に………。
10周年イベントの晴れの舞台になるはずの工場内の“広場”に回ると、なんと雨合羽を着た小渡さんが数人の男性諸氏と舞台の基礎作り作業の真っ最中。小柄な小渡さんは、こういう中ではまったく埋没しちゃう………。

とりあえず他にやることがないので、足手まといにならないように、宮崎県から先着している森本 茂さんと舞台作りに必要な資材を運んだり、照明器具を取りつける神田朝章さん(沖縄海塩研究所社外役員)のハシゴを押さえたりしているうちにあっという間に夕方に。その間も時折雨が降ったりして悪い予感はさらに強まる………。

夜。
普段は塩の袋詰め作業をしている部屋で“前夜祭”が。遠くは福島県や東京や宮崎県からの招待客など約50人の人たちに玄米のオニギリやイセエビ、シイラなどの海の幸、新鮮な島ラッキョウなど島の食材をふんだんに使った、心のこもった手作りの食事がふるまわれ、ビールや泡盛などを飲み交わし、翌日に備えた。
フェリーも欠航。奇跡は起こらず!
【2月19日=当日】
早朝、宿舎の「プチホテル・いさ」の窓から海を眺めると生憎の雨。空にも、薄黒い雲が流れている。
天気眺めで遣り残した準備を手伝おうとホテルのご主人に送っていただき、8時半には工場に。時折、気合の入った声や笑い声が聞こえるので作業テントや作業室を覗くと、福島から来た僧侶でうどん作り職人の鈴木倶子さんたち20人のグループは6時頃から下準備を始めたとか………。
“本職”(左の福島から来た男性)に島のトップバッター、小渡美代子さんがキネを振った
善男善女の集まりで、前夜祭でも我こそは晴れ男・晴れ女なりと自称する人が多かったにも関わらず、よりによってイベント当日に雨(だけでなく風も波も! このため、那覇からのフェリーは欠航となった!)。奇跡は起こらなかった。

テントを張った“台所作業場”でも、臨時の“そば打ち場”となった倉庫でもすでに多勢の女性を中心とした人たちが忙しく立ち働いていた。そのうち第3釜場から威勢のいいモチつきの音が。左右2人で交互につくやり方で、時折歓声があがる。職種の違いというか、都会人と地方人の違いがすぐ分る。モチつきで腰の使い方がまるで違う………。

9時頃。
最初につき上がったモチで大きなお供えが出来たのを見て、ひときわけたたましい声(失礼! いい意味ですからご容赦を)が響き渡った。鈴木さんが「所長、準備ができたからここで神事をやっちゃいましょう!」と有無を言わせぬ感じで、急遽1号釜と2号釜の間に張られたテントのもとで神事が始まる。

玉串奉てん後柏手を打つ小渡夫妻ら ダルマの両目に炭を入れる小渡さん
小渡夫妻が玉串を捧げ、参列した一同が柏手を打った後、鈴木さんたちの本拠地である福島県の西郷村商工観光課から寄贈された大きなダルマの両目に小渡所長が燃料に使ったマキの炭で目を入れる。その瞬間、何かが去来したのだろう、小渡さんの目には光るものがあった………。

三線を奏でる岸本さんも感無量の様子だった
その間のBGMは漁師で元村議の岸本さんが三線を奏でるというシーンも見られ、何から何まで手作りの神事だった。よく考えれば、これが本当の神事では?

神事は15分くらいで無事終了。
ここで小渡さんが宣言。「工場ではこれ以上無理。総合センターへ移そう!」
全ての切り換えが開始された。
用意した食事は昼・夜合わせて450人分とか
子供たちも楽しそうにモチつきに興じていた 月桃の葉に包まれたそば。さながら東北と沖縄の合体だ
実は、食事を用意するスタッフは早朝から工場での挙行を諦め、村の施設での切り換えに備えていたようだ。
12時過ぎ、製糖工場見学の後、以後の会場になった総合センターに到着すると、すでに調理室では10人以上の人たちが立ち働いていた。「どのくらい作るんですか?」と聞くと、なんと昼食は200人分、夕食にいたっては250人分用意するとか!


一方で、センター入口付近では島の子供たちや父母たちが交代でモチをつき、つき上がったモチはたちまち数種類の甘辛のからみモチに仕上げられ、会場内のテーブルに運ばれる。さらにはそばも景山武夫・一子夫妻により計70人分が打たれ、沖縄ならではの月桃の葉に盛られ会場内に運ばれる。

会場内には、この日のために日本酒、泡盛、味噌、お茶、マヨネーズなど各社の商品が置かれ、さながらミニ・フェアの様相。全てが『粟国の塩』を信頼し、採用し、商品化したものだ。島の製糖会社から届いた、ここ数年試作に取り組んできた『粟国の塩』を使った黒糖にも多くの人の手が伸びた。

温かみのある金丸さんの語り口に最初ざわめいていた会場も次第に引き込まれていった 分りやすい各パネラーの話しに次第に聴衆も集中していった
13:40.
“感謝の集い”〈第1部〉が始まる。声優でエッセイストの平野 文さんの司会で、食環境ジャーナリストで東京スローフード協会設立発起人の金丸弘美さんが「スローフードとは」と題して講演(講演概要は別項【データ 1】参照)。会場からは「いままでスローフードについて誤解していた」、「スローフードがお題目だけでなく、経済性を加味したものだということがよく分った」などの声が聞かれた。


『粟国の塩』の存在価値は十分分っていると言明した上江洲新村長
14:30。
〈第2部〉は基調講演を行った金丸弘美さんがコーディネーターを務め、宮城弘岩さん(沖縄企業連合社長)、森本 茂さん(無農薬茶生産農家)、武富勝彦さん(環境保全型農法研究家)、中村成子さん(料理研究家)、塩川恭子さん(食の学校主宰)の5人のパネラーがそれぞれの立場から「塩・食・健康・環境・教育」についてユニークな意見を出し合い、金丸さんの巧みなまとめもあって聴衆に感銘を与えた。

17:00からは〈第3部〉。“スローフード小宴”と銘打たれた「10周年の感謝の集い」。沖縄でつとに知られているラジオ沖縄の屋良悦子さんの軽妙な司会で進められた。

初めに、昨年当選した粟国村の新村長・上江洲誠吉さんが「粟国の名を広く知らしめてくれた『粟国の塩』、沖縄海塩研究所がさらなる発展をとげることを祈る」旨の祝辞を述べ、日本酒醸造所社長の大木大吉さんの音頭で乾杯した。

歓談、会食の間に島民の老若男女による三線の演奏、琉舞、エイサーが次々と行なわれ、間を縫ってマルコ・マッセターニ(在沖縄イタリア領事館)、田崎聡(沖縄・奄美スローフード協会長)、松田優正(松田マヨネーズ社長)、屋良秀夫(琉球大学教授)、草場道子(NHK出版)、我那覇明(我那覇畜産社長)五月女盛一(春駒屋社長)ら『粟国の塩』と縁の深い人たちがこもごも祝辞を述べ、さらに沖縄で活躍するロック歌手・ジョニー宜野湾のミニコンサートが2回に分けて行なわ
会場の半数近くの人たちがカチャーシーに加わった 謝辞を述べる小渡さんの胸には様々な思いが去来したようだ
れ、彼の演奏に乗ってカチャーシーが会場の人たちも参加して一段と盛り上がったところで、最後に主催者の小渡幸信さんが「雨やらフェリーの欠航やらハプニングに見舞われたが、地元島民の人たちも含めこのように多くの人たちが集まっていただき感動している。塩の道はまだまだ奥が深いが、これを機会に全所員一丸となって、より良い塩作りに邁進し、日本の食の向上に少しでも役立ちたい」と謝辞を述べ、午後10時お開きとなった。



●トピックス
島のパンフに「塩」がない!………新村長、「掲載約束する」

だが、「塩」は島の有力産業なのに掲載されていない!
サイズもユニークで、人目を引くパンフレットだ 「不掲載は不自然。改善を約束する」と述べた上江洲新村長   =2005年2月19日、粟国村総合センターで
フェリー「粟国丸」に初乗船した際に気づいた事が。
客室の各イスの背もたれに縦長の色鮮やかなパンフレットが差し込んであった。これから「アグニ」へ出かけようとする人に対して村役場が作成したものだ。絵葉書までついている。
何気なく見てみると、中ほどに「産業物産」という見開きページがある。まーじんに始まってかりんとう、そてつみそ、黒糖などが写真入りで並んでいる。
うん? 何か抜けていないか? もう一度ゆっくり見直しても『粟国の塩』は載っていない。他のページを見たがやはりない!

でも、中ほどの見開き観光マップには「塩工場」は出ている。なぜ? そんな素朴な疑問をもって3度目のアグニに上陸した。

夜の小宴で昨年、予想を覆して新村長に当選した上江洲誠吉さんと話す機会を得た。素朴な疑問をぶつけてみた。
上江洲村長、「今あるパンフレットは2版目のもので、初版には載っていたと記憶しています。前村長の判断で内容変更をしたのでしょう。しかし、この内容はご指摘のように粟国島の実態にそぐわないので、切換えることをここにお約束します。ただ、ご承知のように財政事情は厳しいわけで、残っている在庫を廃棄してすぐに切換えることはなかなか難しいこともご理解ください。いずれにしても、3版目の際にはキチンとします」と“約束”してくれた。

その後気づいたことあり。
こんどはマップに「製糖工場」が載っていない。予算という壁はあるでしょうが、村のホームページを拝見したら、「当選あいさつ」で今後4年間の施政として3本柱を上げ、その一つに「農業の振興と発展を図り、合わせて水産業・観光産業の活性化を図りたい」と述べています。たかがパンフレットかもしれません。しかし、パンフレットの刷新は“観光事業の活性化”の一端を担うものと思います。

これからアグニへ行こうと思っているみなさん、パンフレットに注目してください。



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