Cottage Design Karuizawa  Karuizawa                      









〜アントニン・レーモンドの軽井沢建築遺産を訪ねて〜


1.新スタジオ(夏の設計事務所)1960年〜1963年



2.聖ポール協会 1934年〜1935年



3.足立別邸 1966年


映像提供: フレディー一級建築士事務所 www.freddy-project.com



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〜また一つ消えるヴォ−リズ建築〜 (William Merrell Vories 1880〜1964)              2.Sept.2010    

軽井沢ナショナルトラスの主催する恒例の別荘ウォッチングや会報誌から今年もまたヴォーリズ建築が一つ消え、
二つ消える,と言った話を聞くにつけ、なんとも寂しい思いがこみあげてくる。
明治19年に英国聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーに見出され、明治21年に自身の別荘を建てたことから、この地の避暑地としての歴史が始まった。この地には今でも80年〜100年前に建てられた古い建物が多く遺されている。
これら古い建物を維持、再生して行くことがいかに大変かと言うことを痛感させられる。

軽井沢町や篤志家,企業の理解でいくつかのものは維持再生され、今に、建築遺産として引き継がれ公開されている。
また、いくつかは、歴史ある建築遺産として、残そうとの強い思いから、個人の方が所有し、維持管理されているものもあり、
頭の下がる思いである。

まず、これら軽井沢の原風景ともいうべき古い建築物を残そうという強い思いと理解がなくては始まらない。
また維持、再生、管理には古い建物ゆえに大変な費用を必要とする。簡素なサマーハウスとしての古い建物は,使い勝手は悪く、
とても快適さからは縁遠い。
近年、四季を通じ快適な山荘ライフを求め、高気密や高断熱の建物を欲する人達が多い中、これら古い歴史的建物を修理再生
し、維持管理してゆくことは軽井沢を愛し、歴史を後世に伝えたいとの強い気持ちを持たないと、なかなかできることではない。

今回消える運命にある建物は、45年ほど前、旧軽井沢の三笠通りと草軽電鉄鉄路の中間域にあったが、建て替えに伴い取り壊すこととなったもので、
近所でもある現所有者Yさんの先代がご自分の敷地へ移築し、今日まで維持管理をされて来られたものである。
老朽化で傷みが進み、建て替え計画を余儀なくされたものである。
 



     
ベランダへ至るアプローチは自然味豊かな雑木が美しい  屋根付きの大きなベランダ 
   
     
歪んだガラスが嵌められた窓 移設し後世に残したい        階段踊り場に付けられた貫き壁ブラケット        
   
     
気泡の入った歪んだガラス窓、ドアーノブ、自然素材のパーツなどは再生利用したい 
 
     
数種類の変形ガラス窓 古道具屋で人気の真鍮ドアノブ は M・mハウスサンルームへ しっかりした籐椅子はこぶしざわ山荘事務所で再使用 
     

   
当時の材そのままの下見張り外壁 随所に補修痕が  ベランダの網代天井 ベンチや手摺にも自然素材を多用 参考間取り図     

平成22年(2010)12月取り壊し消失−   
 








ボーリズ建築は、氏の死後半世紀が経過しようとする今、木造の建築物故にその命を消滅させる時を迎え、
寂しく残念であるが年々姿を消して行く。

その歴史的痕跡を残したいとの思いで、建築パーツを再生し、新たな建築にパーツとして、生まれ還らせる試みを展開している。

ドアノブ、衣紋掛け〈フック)、電灯器具、調度品など。
これらパーツは、建物本体と違い、メモリアルとして、今後とも末永く後世に伝えて行けるものである。

新たな息吹を吹き込み、大切に使い続けることで、造作の落ち着いた美しさと、気持ちの平穏を与えてくれる。

今般、上記取り壊しした建物のガラス窓を再生した持ち主のYさん宅の玄関先風除室と高崎M・mハウスのサンルーム
として、再生させた事例をご紹介したい。
 

 
 
〜新軽井沢Yさん邸の玄関先風除室への再生事例 そのT
 
     
玄関アプローチ風除室右と奥の計4枚の古い窓ががシックな色調に塗られ蘇える 当地では風除室と呼ばれる玄関前の囲いは多雪地方では多く見かけるが、
冬の気候条件の厳しい当地でもおすすめの設備といえる 簡単な囲い程度のものから閉鎖型などタイプは様々である 
 
   
 



〜高崎M・mハウス サンルームへの再生事例
 そのU〜 

広さ約2坪のサンルーム コンクリート基礎に浅間焼け石を外張り 窓開口部へ片引きの網戸を新調。
開口部以外及び屋根部はポリカーボネート(三菱樹脂ユーピロン)嵌め殺し。
塗装は、元の窓枠白色に統一、伝統的な温室色イメージのホワイトに。

                                                       引き違いガラス窓 南正面2枚一組 870x1,190
                                                                   東西各2枚二組 417x1,190
                                                       出入口框ドアの真鍮丸ノブ(框戸は新調)


                                                       施工:(株)本菱(建具 土屋木工所)
                                                       竣工:平成25年1月



窓桟とガラスの一部欠損を補修  基礎はコンクリート布基礎浅間焼石外張 
   
真鍮ドアノブは古色をそのままに   内部から隣地を望む 窓鍵は真鍮ネジきり
   


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 第10回文化講座「軽井沢の別荘建築の系譜−ベランダモチーフを中心に−」2010年9月26日
講師 神奈川大学 内田青蔵先生 会場 旧雨宮邸 ギャラリー蔵 講師は、大正4年(1915年)野沢組とタイアプし、軽井沢に進出、大正末期に撤退するまで
数多くの新しい洋風別荘を手がけた「あめりか屋」研究の第一人者。
また、永年ボーリズ建築など軽井沢の別荘建築の歴史から構造に至るまでを調査・研究されている。

第1部 調査からみえた軽井沢の別荘建築の概要

第2部 現在の関心事(今後の研究テーマのひとつ)としての「ベランダモチーフについて」
     軽井沢別荘建築の特徴の重要な要素 「ベランダ」、 「ベランダ」が導入された経緯。
     軽井沢最初の外国人別荘、 「ベランダ」のルーツ
     「あめりか屋」の軽井沢進出
     ベランダ・モチーフのルーツ・その1、その2

−むすび−
  ベランダは、軽井沢別荘の特徴のひとつ。その誕生の経緯は今後の詳細な研究が求められるが、明治30年頃からと推定される。
  第1期(明治期): 自然素材の野趣なもの。 第2期(大正期): アメリカ系バンガロー様式のもので、野趣さは消え、
  代わって柱も色も人工的となる。
  建築的には、開放系のベランダが室内化され、閉鎖系へ向かっている。特徴の喪失化が窺える。  −以上貴重な配布資料より−
 


     
     

 


 



       軽井沢町歴史民族資料館文化講座
「別荘地軽井沢の誕生と世界のリゾート」〜
   9/8’12  13:30〜15:30 於:ギャラリー蔵
 
 
立教大学安島教授    会場の離山公園内“ギャラリー蔵” 
     
立教大学観光学部教授である安島氏が軽井沢誕生に絡めた推論を展開。避暑を目的に形成されたアジアの植民地における共通の避暑地形成の
コンセプトを比較する興味深い講座であった。聴講者は凡そ30名、藤巻町長の姿も見られた。

−資料より−
<避暑地「軽井沢」の誕生>
・明治18年に英国聖公会の牧師A.C.ショーが、初めて軽井沢を訪れる。
 軽井沢が目的で訪れたのではなく、たまたま立ち寄って、その自然、気候が気に入ったとされる。

・翌年から軽井沢で夏を過ごす。

・明治20年には大塚山(旧軽井沢近藤長屋、現結婚式場裏手)に廃業した旅館を買って別荘に改築。 
・東京に住む外国人の友人・知人に軽井沢を知らせる。

軽井沢・トロント・東京の年間の気温比較グラフによると、軽井沢とトロントの月間推移曲線が驚くほど重なり、二つが似た気温であることがわかる。
なお、東京とは年間を通し、4〜5℃低い。
A.C.ショー氏が軽井沢を気に入った理由に気候がふるさとのカナダトロントに類似していた(牧場の風景や植生なども似ていた)と言われるが、
なるほどと思わせる。

<ショー氏が軽井沢に避暑をした理由>
○夏涼しく、蒸し暑い日本の夏を避けられた。
○気候がふるさとカナダトロントに類似。
○交通の便が良かった(中山道) かって大名行列も通った。
○東京から一番近い高原だった。
○子供達に自国のアイデンティティを与える。

<日本人も好む風景>
○もともとは牧場と荒れ地で眺望のきく場所であった。
○現在のカラマツの林は、日本人が植林したもの。
○日本人はすぐには風景になじめなかった。正宗白鳥は伊香保の方が良いと。
 稲作水田の田舎現風景とは異なる高原風景のためか?

<世界の事例>
CATSKILL MOUNTAIN U.S.A. アメリカのサマーキャンプの伝統
 1835年 マーサス・ビンヤード島  葡萄畑の広がる島にキリスト教の関係者が集まってキャンプミーティングを行なったのが発祥。 

○ヒルステーション
 ・アジア諸国を植民地とした欧米人が開発した高原避暑地。
 ・インド、マレーシア、ヴェトナム、ミヤンマー、フィリピンなどに多数存在。
 ・1820年にインド・シムラに初めて成立。インドが古く、ダージリンなど開発が続く。
 ・アジアの植民地には200近くのヒルステーションがある。
  代表的なヒルステーション
  SIMLA INDIA, DARJEEELING INDIA, DALAT VIETNAM,CAMERON HIGHLAND MALAYSIA

―まとめ―
(1)軽井沢誕生の時代的背景 (2)避暑地軽井沢に求めたもの (3)世界の山岳・高原リゾート (4)軽井沢のルーツは?

特に興味を惹かれたのは、(4)軽井沢のルーツで、安島教授の持論(仮説・推論と断っておられた)を展開されたのが、本日の講座のハイライトであった。

以下、私なりの理解でまとめてみたが、先生の本意でなければ、ご容赦を。

「明治18年に宣教師A.C.ショー氏がたまたま軽井沢に立ち寄り、広めたと言われるが、それ以前に兆候は見られ、もしショー氏が軽井沢を紹介しなくとも、
現軽井沢はアジアの植民地に欧米人が誕生させた避暑地とは異なるが、コンセプトのルーツを同じにした軽井沢の高原避暑地が日本人の手で発祥
していたと見る。」

その根拠として教授が挙げられたのが、「明治4年〜6年にかけてアメリカからヨーロッパ、アジアを歴訪した“岩倉使節団”  その目的の一つに西洋文明の
調査がある。
日本がいかに遅れているか、何が遅れているか、どうすれば良いか を問いかける。
使節団の残された膨大な調査資料の中にヨーロッパ最終訪問地スイスの山岳リゾート地ヴィッナウの山頂に建つスイス式シャレーの写真やチェルマット
の山岳観光写真など何枚かがある。
これらリゾートに関わる資料が何の意図で取上げられたのか使節団の真意は推察の域をでないが、爾後わが国の近代化に多くの影響をもたらした使節団の
調査は、わが国のリゾート開発にヒントを与えた兆しとして捕らえられるのではないか。この意味で軽井沢成り立ちのルーツとも言えるのではないか」

使節団の後、12年経過した時代にショー氏により見出された軽井沢であるが、これ以前の使節団の兆しにその“ルーツ”を見出せるのではないかというには
使節団に遅れること12年も経てからのショー氏以前のあまりにも長い空白?をどう説明されるのだろうか。
ショー氏こそ、アメリカで始まったキリスト教のキャンプミーティングから影響を受け、これを念頭に置き、モデルとして軽井沢を描いていたと言われる。





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  〜第25回小山敬三記念小諸公募展〜
 

 於:小諸市立小諸高原美術館・白鳥映雪館
 平成23年10月29日(土)〜11月23日(火)
 

精力的に制作に打ち込む前橋の友人熊哲さんが浅間山を描き出展したとのことで、浅間山麓に縁ある者として、片道17.1kmを秋色に染まる
高原縦断道浅間サンラインを小諸へ向かう。雄大な山麓のドライブを楽しみ、高峰高原への登り口チェリーラインを過ぎ、菱野交差点から2kmほどで
左手の小高い丘(飯綱山公園)に美術館の尖がり屋根が見えてきた。沿道の標識を左折すると、飯綱山の頂上付近に美術館はあった。

入選作192点と招待作品として過去2年の大賞が展示され、かなりの展示ボリュームであった。
この公募展は、小諸市が生んだ小山敬三画伯(1897〜1987)に因んだ記念展として、毎年開催されていると言う。

小山画伯は、日本芸術院会員、日展理事として、文化功労者の栄誉に浴し、文化勲章を受章した小諸の名誉市民である。
氏の画風は、温かな色調におおらかにデフォルメされた造形と言え、故郷から望む浅間の山容を描いた作品が多い。
氏が寄贈した小山敬三美術館は小諸の懐古園の中に常設館としてあるが、大きな公募展が開けるスペースはないため、ここ小諸高原美術館
・白鳥映雪館で開催されている。
懐古園の小山敬三美術館は建築界の巨匠村野藤吾の1975年の作で、曲線の白壁は小山画伯の作風を建築に表現したと言われ、
館内は胎内に抱かれた温もりが伝わるようだ。芸術作品としての評価も高く、毎日芸術賞が贈られている。
白鳥映雪画伯(1912〜2007)は小山画伯と同じ小諸市の出身で、伊藤深水の高弟として活躍された。氏も小諸市の名誉市民である。
私は、30数年程前、縁あって白鳥画伯の15号大の美人画を額縁商から購入、数年所有したが、買い戻させて欲しいとの依頼から、
手放した経緯がある。
なけなしの大枚で大家の作品を所有した若かりし頃が懐かしく思い出される。    
(11/20 ’11 y.k)
 


   
奨励賞 熊谷哲夫 秀麗・浅間山(U) 油彩   秀麗・浅間山(T) 油彩

熊哲さんは出展2点とも入選し、縦描きが小山敬三美術館友の会奨励賞を受賞された。
秀麗の文字どおり繊細なタッチと澄んだ美しい色使いは氏が得意とするところ。
2点とも入賞はないので、手前に黒々としたモミの木を入れ、画面の引き締めと奥行き感の効果を狙った縦書きの方を入賞としたのではないかと、
審査員になったつもりで、勝手に評価している。
過日、群馬県展において氏(県展準会員)の作品を鑑賞することができた。アムステルダムのアンネフランクの家に関わる壁ポスターや落書きなど
町の片隅の薄汚れた経年変化が技巧と繊細なタッチで見事に描かれていた。
本格的に絵を習い始めてから短期間で今や賞を取り捲る快進撃には年々眼を見張るものがある。 


       (館内での写真撮影は禁止されていたが、本人が来られないので代わって報告したいとのお願いをし、許して頂いたもの。)


 
☆小諸高原美術館のある飯綱山公園☆
     
 頂上より見た美術館 浅間サンライン 軽井沢方面を望む  右端浅間の主峰(2568m)は雲に隠れて見えず 
左に黒斑(2414m)高峰(2106m)
 
     
     
小諸市外地と佐久市方面を望む  小諸市の西端域  頂上にあった山城の主郭跡 
   
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