Cottage Design Karuizawa  Karuizawa                      




山荘だよりVol. 4
Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10   Vol. 11
Vol.12                     

Vol. 4の内容

○山荘のネコ、アーティチョーク三題

○吉村順三展

○吉村順三氏設計「ハーモニーハウス」&「旧カニングハム邸(メロディーハウス)」の限定オープンカフェ

○ハーモニーハウスが2015年4月20日より常設の朝食カフェとしてオープン その名も゛ELOISE`S  Cafe"

○軽井沢の吉村作品をたずねて

○北欧のデザインに巡り合う旅-帰朝報告

○小布施町修景における建物・インテリアを巡る旅 -主催 群馬インテリアコーディネーター協会- 

○第20回JIA群馬クラブ建築展2013 講演会「二人の外国人建築家/タウト&レイモンドいn群馬井上房一郎とタウト&レイモンドを考える」 講師 熊倉浩靖氏



 



山荘だより Vol.4 Dec.2005

 ~山荘の猫~

未だ小さな体の野ネコと思われる赤毛のキジトラの母ネコに子猫を3匹託されてしまった。

2005年4月下旬頃のある日、薄汚れた首輪をした未だ成猫とは思えない小さな体の赤毛のキジトラが山荘ベランダに現われた。
餌付けをしてから何度か姿を見せた。

2005年5月上旬ベランダに続くサンルームに家族といるとなんとこの猫がヨチヨチ歩きの子猫を3匹連れて現れ、皆を驚かせた。
まさかこんな小さな体で母親とは。何度かこんな光景を繰り返したろうか、
母猫は子供達がオッパイを欲しがると威嚇し、乳離れを促していた。

その後、3匹の子猫を残し、母猫は二度と姿を見せなくなった。
「ここでお前達は面倒を見てもらいなさい」と母猫に見込まれ子供達3匹を
託されてしまったのであろうか。
一時は途方に暮れるが、餌付けをした責任で面倒を見ることを覚悟した。

子猫たちは日増しに育ち写真のような大きさになったある日、
山荘に行くと雄の1匹が姿を消した。
残った雌の2匹、コブ1とコブ2は「にゃんたはうす」の援助を頂き、
10月25日避妊手術を無事済ませ、手術痕も回復。

「にゃんたはうす」の宮崎様有難うございました。
「にゃんたはうす」http://nyantahouse.main.jp/
代表 宮崎真弓様

厳寒の雪中を二匹で駆け回り、木に軽々と駆け上がったりして遊んでいた。
いつまでも仲良く、元気でと願っていた矢先、コブⅡが居なくなった。
自宅と山荘を3~4日ごとに行ったり来たりの間の出来ごとであった。
外に餌を置き暖房を入れた巣箱を設置してあるものの、留守にする日々の
行動が今更ながら悔やまれる。

賢い母猫、可愛い兄弟姉妹、二度と姿を見せないが一体どこにいるのか、
どこかで元気にしていて欲しい。
1匹だけ残ったコブⅠが一層愛おしい。賢い母猫や子供達に逢いたい。
コブⅠに「お前のお母さんに逢いたいよ。
何処に居るのか知っているのではないのか。
知っているなら教えて。」と時々迫るが答えるべくもない。
虚しさが募るばかりだ。


いつも一緒の姉妹。左が警戒心強く野生的なコブⅠ右がおっとりで人懐こいコブⅡ 

   
山荘に来て早9年 ご近所から「賢いコブちゃん」と可愛がられている反面「ハンターコブ」とも呼ばれ、モグラ、ヘビ、山鳥、リスまでも捕獲してしまう 野性味溢れる女の子。 
6/3 2014年
 

   
何処からか野鼠を捕獲、小滝見橋の上で舐めたりお手玉したり遊んだ挙句、コリコリと美味しそうな音と共に腹に収めてしまった。  3/28 2015年 
   





あの資生堂の福原義春さん宅の猫物語を読んでびっくり。
我が山荘の猫物語にあまりにも酷似。

猫の性格が愛情溢れる名文でつづられ、ご自分の世界観が変わったとまで言い切る福原さん。

猫派にとってはたまらない物語だ。
おまけに最終章の息絶えるくだりは涙せずにはいられない。 


本山荘だより「Vol.1 41年振りの再会・・・」で旧職場の方達の山荘来訪時に拙荘猫コブの話しをしたら、翌日Yさんから昨日聞いた話に良く似た猫物語が新聞に載っていたと、切り抜きを送ってくれた。
拙宅でも朝日新聞を取っていたが見過ごしていた。


                        ―福原義春の道しるべをさがして―  朝日新聞 2014年5月24日

先日、猫のプーが17歳で亡くなった。小さい頃から犬を飼い続けてきた私の、初めての飼い猫だった。

最後の犬でココと名づけた雑種は、ことさら利口で、私の気持ちをよく理解し、出張からしばらくぶりで帰ると、歯を出して笑った。
そのココが年老いて一日中小屋で寝ているようになった頃、時々美しくしなやかな姿態の黒い猫が、家の中をのぞくようにして通り過ぎるようになった。
声をかければ、なつくどころか急いで逃げるのだ。

その猫が、庭の隅のヤブランの茂みで3匹の子猫を産んだ。子猫を見ているとたちまち戻ってすごい形相で怒り、人を寄せ付けなかった母猫だったが、ある日の夕方、台所のガラス戸からじっと妻を見ていたという。
そしてそのままいなくなってしまい、二度と帰らなかった。

こうして成り行き上、3匹の子猫たちを迎えることになった。
黒・三毛・灰色の3匹のうち、一番活発な灰色猫は名前をつけないうちにトラックにはねられてしまった。

黒猫はそそっかしいので、クマのプーさんにちなんでプーと名づけた。
生まれつき一本の後脚が不自由な三毛は鳴き声の通りミーと名づけた。

あの賢い母猫は、私の家族に猫と一緒に暮すことを教えてくれた。
人の言うことをわかろうとする犬と全く違い、自分の都合や言い分を通す猫と暮して、大げさだが私の世界観が変わったと言ってもいい。
あらゆることが人間中心では動かないのだ。
返事は機嫌のいい時だけで、呼んでも来ない。出入自由の猫用窓があるのに、ドアの前に座って取っ手を眺め、人に開けさせる。それなのに人は重たいキャットフードや猫用砂を買って帰る。まさに見返りなき愛だ。

プーに至っては、週末になるとどこかに行って帰ってこなかった。
ある日、小唄の師匠から「この猫はお宅のプーちゃんではないか」とメールで画像が届いた。
聞くと師匠の知人で建築家の石上申八郎さんが週末を過ごす家に現れ、クロと呼ばれてかわいがられていたのだという。
この件を機に、石上さんにお会いしたら、お互いに本好き、映画好き、たちまち意気投合し、以来、おつきあいが続いている。

そんな人の縁を結んだことなど関係なく、気ままに出歩き、我が家では無愛想なプーだったが、最後は大好きな娘の二階の部屋の前まで行き、息絶えた。
猫の魅力と不思議を、ますます深めて逝ったのだった。 
  (資生堂名誉会長)








 ~アーテチョーク三題~


 
自家ナーサリーこぶしからの作出 地場産ミズキ材での木彫愚作 巨匠ポールへニングセン作 





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 吉村順三展~

山荘造りの極意を学ぶ
「簡素、質素を旨とすべし」
「本当に良いもの、品のある
ものは、必要なものだけで
構成されていることが多い。

真に芸術的なものを一言で
表現しようとすれば、「品」
ということに尽きると思う」 
‐吉村語録より‐
 
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                吉村順三氏設計
                    ~軽井沢ハーモニーハウス&メロディーハウス~
                             オープンハウスカフェ 2011
                                 平成23年8月26日(金)・27日(土)11:00~17:00
 
 
 
~ハーモニーハウスとは~
(社)青少年音楽協会(MUSIC FOR YOUTH, INC.Establish in 1939)の創設者のエロイーズ・カニングハム女史が、
とても音楽を愛していた両親の、ウイリアム・カニングハムとエミリー・カニングハムを記念して建てました。

そして、音楽を愛し学ぶことを目的とした若い人々に、また人種や宗教、社会的な立場に関わりなく精神的、肉体的、知的生活の向上を目的
とした人々に、大切に、有効に使われることを希望して建てられました。

現在は(社)青少年音楽協会に寄贈されその志を受けついでいます。
会員ばかりでなく、同じ目的を持つ多くの人々に使っていただきたいと願っています。 

~ハーモニーハウスの特徴~
軽井沢の美しい自然、そして
清澄(せいちょう)な空気が満喫できる場所にあります。
周りはホテルやゴルフ場で広々と開け、静かで落ち着いた場所に建ち、音楽の練習を行なうこともでき、ミュージックキャンプや
コンサート、また各種の勉強会、研究会、修養会などにも適しています。

吉村順三氏の設計による建物は全面木造りでしっかりとした構造材が古色豊かに経年変化し、品格が漂います。
宿泊棟の他に広いホール、厨房、食堂もあり、それら上階と下階をスロープの廊下で繋いでいます。
壁面の背もたれ、手摺、窓まわりなどの造作には優しく使いやすさの配慮が数多く見られます。

ホールにはグランドピアノがあり、小さい音楽会や集会をすることができます。また、宿泊棟にはアップライトピアノが数台あり、
練習にも使えます。

厨房には自炊が出来る設備も完備し、芝の広がる庭では、キャンプファイヤーもできます。
近くにはゴルフ、テニス、ハイキング、サイクリングができる場所にも恵まれ、楽しいキャンプ生活を計画することができると思います。   
                                   ‐軽井沢ハーモニーハウス案内パンフレットより‐

今年も昨年(平成23年)に続き、二日間公開されました。
両日とも11:30と15:00に「MFYアンサンブル」によるティ-・タイム・ミニコンサートが催されました。

晴山ゴルフ場と新軽井沢ゴルフ場に囲まれた、南ヶ丘の自然味豊かな森の中に静かに佇む「ハーモニーハウス」と
カニングハムさんの住まい「メロディーハウス」。
自然に溶け込む簡素な品格を堪能できる静かで貴重なスポットです。

~ハーモニーハウス~
 ハーモニーハウス入口の案内標識に従い玄関へのアプローチ  
   
 
あえて軒下に玄関へと導く十分な距離のアプローチを設けている 美しい玄関周り
 ~アプローチ~

1976~80年吉村順三設計事務所で吉村氏の薫陶を受けた建築家中村好文氏は著書「普段着の住宅術」の中でその重要性を説く。

「アプローチとは建物に近づく道のりのこと。通常、公道から玄関ドアに至るまでをこう呼ぶ。
住宅の場合、特にこの「アプローチ」は重要である。

そこに住む者も訪問者も、この「アプローチ」を歩むことでストレスという名の街の塵埃(じんあい)や社会人としての身構えを振り落とすことができるからである。しかし皮肉なことに、ストレスの多い都会ほど、そしてそれが本当に必要な人の住宅ほど、この「アプローチ」が取りにくくなる。

どうかするとドア1枚で魑魅魍魎(ちみもうりょう は大げさだけれど)の住む外界と接してしまうという事態が出来(しゅったい)する。
せめて12歩分くらいの「アプローチ」が取れぬものかと清貧の見方、庶民派建築家は苦慮するのである。」

建物には正面から近づくべきではないという教えがある、が、都会ではそんな教えを守る余裕もない。
たっぷりとした長さのアプローチをぜひ一度やってみたい!」


また氏は別著「住宅巡礼」のなかで、スイス/ティチーノ地方リゴルネットにあるマリオ・ボッタの「リゴルネットの住宅 1976年」巡礼の項で、その長く幾何学的な切石舗装のアプローチを見た時の驚きと感動を述懐されている。

「古代ギリシャの建築原理には「建物には真正面からアプローチせず、必ず斜めにアプローチせよ」という項目があったそうです。
あのパルテノンやエレクティオンもアプローチはすべてその原則を守っているといわれています。

建物がのっぺり平板に見える上、その建物に正面切って突進する印象の真正面からのアプローチを嫌い、パースぺクティヴに立体の魅力を味わうことができ、建物に親近感を持ちつつ近づくことのできる斜めのアプローチを推奨したことは、さすがといわなければなりません。
その斜めのアプローチといえば、ちょっと思い出すだけでもフィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」、吉村順三の「軽井沢の山荘」といった住宅作品を始め、韓国の「宗廟」など歴史的建築に数々の事例を挙げることができます。
中でもこの住宅のアプローチは、私には傑出した成功例に思えるのです。」

著名、売れっ子の先人達が言うようにアプローチを見れば住まい手の思いや感性のあるや無やも伝わってくるというもの。
山荘の景観、庭創りに携わる者の一人として、常に説いている「玄関へは単刀直入の便利さを避け、敢えて回り道をして期待感と景色を造りなさい!」と。

中村氏のいわれる都会での難しさはいざ知らず、ここ軽井沢では自然豊かな広い敷地が多い。
にもかかわらず、直線的最短で何の景色も無い短絡的なアプローチが多い。

狭い敷地における玄関位置と駐車スペースからアプローチの取り合いは工夫やアイデアが求められ苦慮させられる。
さらなるおもいとすれば、ここ軽井沢の自然に融合させるには、幾何学的な造形美でなく、自然素材を使った遊歩道的小道がおすすめだ!
勿論それは、山荘的風合いの建物が前提のことは言うまでもない。


     
渋い入口ドアにウサギのウエルカムサイン   前庭から望むハーモニーハウス 
   
     
ハーモニーハウスの宿泊棟部分 隣地メロディーハウスから空堀を隔てたハーモニー  前庭からのハーモニーハウス 左手に大きなカツラの木
     
 
竣工を祝賀記念しアルバムに残る吉村設計事務所の現場担当上田徹氏の署名、施工の丸山工務店故丸山杢太郎氏の署名も  2階ホール 籐椅子の経年変化,シルバーホックスカラーが美しい 
大きな木枠のガラス窓に裏庭のカツラの緑が写る 落ち着いた色調と簡素な中に溢れる気品が吉村マジック
2階ホールの軽井沢彫り椅子 
     
     
作者不明のロッキングチェア  建築当時から置かれた籐椅子達が落ち着いた周囲の雰囲気に溶け込む 
   
     
2階ホールの美しく年を重ねた籐椅子やテーブル 当時そのままで傷みはない  2階ホールから階下のMFYアンサンブル練習光景を望む
   
     
 P.B.K.のクレッセント錠 上のホールに続くスロープと下の食堂に続くスロープ 若かりし頃の吉村が勤務したレイモンド夏の家(現ペイネ美術館)
にも同種のものが 
バリアフリーに配慮よりデザイン面と見えるが?
   
   
食堂から裏庭を望む カツラの落葉が自然のままに美しく  宿泊棟の末端 
   
   
主屋から翼状に伸びる宿泊棟 和室と洋室 洋室にはにはピアノが 
     
   
スズメ蜂を駆除した直後のハーモニーハウス付属四阿(アズマヤ) 中央に古色豊かな籐テーブルが ここで楽器を奏でると素晴らしい音響と、案内してくれたサイガバレー研究所の雑賀代表は言う 


~メロディーハウス(旧カニングハム女史邸)~    

カニングハム邸は、旧軽井沢の上、愛宕山山腹に吉村順三氏設計でありましたが、ハーモニーハウス建築に伴い、空堀で隔てる隣接地に1983年建築したものです。

設計は、吉村氏のもとハーモニーハウスの現場主任として担当した上田(とおる)氏(1952年名古屋生まれ。
78年東京芸大大学院美術研究科(建築)卒と同時に吉村順三事務所入社 88年玄総合設計設立代表、JIA(日本建築家協会)、
東京建築士会会員)

吉村自身の設計と言われても納得の吉村テイストを十分感じ取ることのできる建物です。

愛宕山の旧カニングハム邸は、現在吉村建築のフアンである下重暁子氏(元NHKアナウンサー)の所有となり、冬仕様の続き家を増築し使用されています。
 
正面、 外壁は啄木鳥やヤマネに穴を開けられ無残 木外壁を見られるのも最後かも 軒高や啄木鳥防止の内鋼板張なしを除けば随所に吉村テイストが  玄関、ドアの他に引き込み戸が、吉村流の特徴を現す仕様  
     
     
緩斜面にRC布基礎にベランダ    玄関入って直ぐ左の寝室 
     
 キッチン、薪ストーブ、グランドピアノが納まる広いLD 薪ストーブは、Metoskaminフリースタンディング型のコーラルか? 基本形として軽量で美しい  
 
     
2階のゲストルーム 軽井沢彫りの箪笥の後ろは唐紙の引き違い戸 何故か手摺はなく転落防止か?置かれている               手摺のない2階唐紙戸を見上げる 
   
 
寝室のイサム・ノグチや吉村自身デザインの和紙を貼ったテーブルランプとペンダント 吉村が多用する柔らかで暖かな光  
     



エロイーズ・カニングハム(Eloise Cunningham 1899~2000)音楽家
米国ペンシルベニア州出身 宣教師の父親と共に2歳のときに来日、米国の大学で音楽を修め、再来日。
東洋英和女学校の教師などを経て、日本の青少年に「生のクラシック音楽を聴かせる」活動を始める。
1953年に西麻布の根津美術館の隣に自邸を建てる。

ここは、吉村順三が師事したアントニン・レイモンドの設計によるもので、青少年音楽協会事務所とホールを増築し、
今でも青少年向け音楽教育の拠点として使われている。
根津美術館の庭を借景とした簡素ながら美しい佇まいは建築的にも多くのフアンを惹きつけている。 



下重暁子著「エロイーズ・カニングハムの家」
2005年に軽井沢平安堂書店の軽井沢ものコーナーで、表紙が吉村順三氏設計の愛宕山の旧カニングハム邸の写真で装丁されていたこともあり、
建築的興味(レイモンド⇒吉村)から中も確認しないまま衝動買い。

中身は、建物にまつわることは僅か触れられてはいるものの、エロイーズ・カニングハムの生涯の評伝であった。
プロローグに始まり、生涯独身で101歳まで 、日本で若い音楽家の育成に生涯を捧げた、壮絶とも言える一生を
筆者が足で取材をし、確かな考証で著した評伝には大きく心を動かされた。

激しい気性と強固な意思を持った彼女の性格から、レイモンド、吉村との交流、愛宕の著者自邸やハーモニーハウス、
メロディーハウス、西麻布の自邸建築の経緯まで具に盛り込まれている。
建築の静かな感動とは異なる心を打つ驚きを感じ、異国に捧げた壮絶な生涯を思うと涙を禁じ得ない。(y k)

「エロイーズ・カニングハムの家」 
著者:下重暁子 発行:2005年7月25日 発行所:株式会社白水社 \1,800+税

南ヶ丘のメロディーハウス以前にカニングハム女史が住まわれた愛宕山895の山荘を下重氏が入手するまでの経緯にも触れられている。
ここには浅間石の低い門柱に"CUNNINGHAM”の標識が残る。

 


ハーモニーハウス<社団法人 青少年音楽協会事務局>
東京都港区西麻布2-21-2 ℡03-3400-3386 

 
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  吉村順三氏設計 ~平成25年軽井沢ハーモニーハウス公開~
オープンハウス・カフェ  2013年8月31日(土)・9月1日〈日)開館時間 11:00~17:00
☆ティタイム・コンサートがあります。
31日(土)MFYアンサンブルの練習風景
1日(日)11:30と15:00の2回 MFYアンサンブルとサイガバレエによるミニコンサート

                                             
ごあんない
残暑お見舞い申し上げます。
今年も軽井沢ハーモニーハウスを公開いたします。二日目にはミニコンサートも開催いたしますのでお気軽にご来場ください。
創立者のエロイーズ・カニングハムと吉村順三氏が心を込めて造られたハーモニーハウスは建設してから30年の年月が経ち、
近年修復箇所も増え、大変費用が掛かるようになりました。現在、この素敵な建物を有効に使って下さる方にお譲りするという方向で
進めています。
当協会主催のオープンハウスは今回が最後になるかもしれません。
どうぞこの機会にハーモニーハウスへ遊びにいらしてください。
                                                  2013年8月 (社)青少年音楽協会




上記の案内状から、今回が最後の公開になるかも知れないということなので、仕事仲間に声がけし二日目に出掛ける。
ミニコンサートは始まっていた。

アンサンブルの奏でる曲に合わせ、サイガバレーの雑賀淑子氏(青少年音楽協会理事)と関あゆみ氏(青少年音楽協会事務局員)が踊りを披露。
その華麗ながらコミカルな舞いに会場が沸く。
食堂でティーをいただいた後、経年変化の美しい木の造作を細部に亘り見学、吉村ワールドに浸る。
隣接の旧カニングハム邸もお願いし見せていただく。
今回は草に覆われた前庭から建物外観を具に見学。ハーモニーハウスの屋根垂木、破風板は腐食が進み、旧カニングハム邸外壁は
ところどころに啄木鳥穴の被害。これらを見ても、大きな木造施設ゆえに維持管理の大変さがわかる。
現在、有効に活用される方を探しているという。
この貴重な建物施設を後世に残してくれる篤志家が見つかることを願い、今回が最後にならなければ良いがと思い、チョット複雑な思いで後にした。
 
 








~ハーモニーハウスが朝食カフェとしてオープン~    
愛宕山のカニングハム邸の
表札が往時を偲ばせる


       
玄関アプローチと真新しいエロイーズカフェの木製サイン板  cafeに設えられたウエグナーのビンテージ椅子 大きなガラス窓からカツラの大樹や若芽の炊き込みご飯が香る大きなヤマウコギ、新軽ゴルフ場が望める静かな環境 
   
 
三笠ホテルのブラックカレー オリジナル三笠ホテルカレーブラックソース 信州牛スネ肉 長野県産コシヒカリ ミニシーザーサラダ  旧カニングハム邸(貸別荘)に弊社より購入頂いたボーエ・モーエンセンデザインの椅子J49が 6脚


ここ南ケ丘のハーモニーハウス内に本社を置く(株)軽井沢総合研究所は予てから温めていた活用策を発表。
リノベーションした建物の一部,ダイニング部分を2015年4月20日より ゛エロイーズカフェ” と銘打ち、今この地で流行りの朝食を中心としたカフェとして運営すると言う。

建物を所有する一般社団法人青少年音楽協会は老朽化が進み、維持コストが嵩み資金面で維持管理が難しくなっていたため有効活用をしてくれる先を
さがしていた。

軽井沢の歴史文化遺産を生かし事業化につなげることを業とする軽井沢総合研究所が借り受け、事業化の一環としてカフェを運営するというもの。
多くのカフェが誕生し、厳しい営業環境の中、少しでも長く存続することを願うばかりだ。

なお、隣接するカニングハム山荘は貸別荘として活用、ハーモニーハウス内の宿泊棟の4部屋はシェアハウスとして使われると言う。

〒389-0102 北佐久郡軽井沢町軽井沢1067-9 ハーモニーハウス ELOISE`S Cafe
営業時間 8:00~15:00 (㋇は21:00まで営業) 営業期間4月~10月 期間中無休 Tel 050-5835-0554

                 27年5月の連休には初日から、近隣の方、建築、デザイン、インテリアに興味ある吉村ファンで賑わったという。

 
  碓井軽井沢IC方面から、群馬から碓井峠を越えて ―

軽井沢バイパスとプリンス通り交差点からプリンス通りをアウトレット、旧軽方向へ

入山峠入口交差点を過ぎ数百メートル行く、
右にアウトレット施設が見えてくる辺り
手に「晴山(せいざん)ゴルフ場」の大きな丸太看板、手前を左に入る。

300m位で右手にサニーヴィレッジ、そこを左折、300m程で右奥に目的地




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 ~軽井沢の吉村作品をたずねて~  
 
この地軽井沢には数多くの吉村作品が森の中に点在している。

その数は関わった工務店からの聴取や作品集から推し量るより術はない。当事者の吉村順三設計事務所の資料以外だれも正確な数は把握されて
いないであろうと思われる。作品集に掲載されているものや聞き及んだ数だけでも20軒ほどに及ぶ。
氏の生涯住宅作品は237棟であると言うが、狭い軽井沢の別荘地内にこれだけ多くの吉村作品があるのは驚きとともに、自然に溶け込み簡素で気持
ちの良い氏の作風と人柄にいかに多くのフアンがいたかを如実に物語る。 


二手橋上の“珠玉の山荘”と言われる吉村山荘「小さな森の家」は自著も出版されており、他にもいくつかは衆目の知るところであり、
名品といわれる氏の作風を一目見たいと、秘かに訪れる多くの見学者が後を絶たない。

特に冬は所有者も訪れず、透き通った冷気の中にひっそりと静まりかえる。
葉を落とした木立の中にその姿を冴えざえしく露出させ、見るものには願ってもない季節と言える。

ここに挙げたいくつかは作品集に紹介されているものもあるが、人知れずひっそりと佇む個人所有の山荘群である。
 
       
外壁は全て木下見張り 何処にも啄木鳥やヤマネの穴被害は見られない 木の下に鋼板が張ってあるのを彼等はどう察知するのだろう 不思議だ
       
       
       
       
       
吉村山荘〈小さな森の家)の再現、張り出し下のデッキからの玄関引き込み戸と薪の焚口  雨戸も穴あけ被害防止の亜鉛鋼板が張られている 
       
       
  吉村デザインの薪ストーブが設置され 特徴ある煙突で一目でそれとわかる     
       
       
  二手橋上の吉村山荘をベースと見られる晩年の作品   



 
  ~吉村順三作品集~
 


 
    

表紙は軽井沢脇田美術館に併設の脇田邸アトリエ 1970年  表紙は八ヶ岳高原音楽堂 1988年 


吉村順三作品集1941年~1978年
1978年12月1日〈初版)
1979年3月20日(第2刷)
1980年12月1日(第3刷)
2000年9月1日(第4刷)
発行所 株式会社新建築社
定価15,000円

(刷の古いものは、古書として、プレミア付37,000~40,000円のものが古書市場にある。在庫に限りがあるようであるが2000年9月1日刷の新品を定価で購入できた。3/2012)).

<軽井沢関連作品掲載以下4作品>
1.軽井沢の山荘A 1962年
2.         B 1970年
〈表紙の脇田邸アトリエ)
3.         C 1973年
4.         D 1973年
  

吉村順三作品集1978年~1991年
1991年10月31日発行
発行所 株式会社新建築社
定価23,000円
(古書市場で18,000~20,000円)

<軽井沢掲載以下10作品>
1.軽井沢の家 A 1979年
2.        B 1979年
3.        C 1980年
4.軽井沢グリーンハウス 1980年
5.軽井沢の家 D 1983年
6.         E 1985年
7.インターボイス軽井沢 1986年
8.軽井沢の家 F 1987年
9.         G 1990年
10.カニングハムハーモニーハウス 1983年
   
     
     
     
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北欧のデザインに巡り合う旅帰朝報告‐~


不朽の名作家具工房を訪ねて
あかりの国に学ぶ照明手法=陰翳礼讃、
心地良さを第一、温かさを演出する。


セミナーポスター
上 アルネ・ヤコブセン エッグチェアー
下 アルネ・ヤコブセン セブンチェアー
コペンハーゲン国際家具フェアー
会場内レストラン
カールハンセン&サン社の
Yチェアー製造工程
美と自然を融合した傑作
ルイジアナ美術館
フリッツハンセン社敷地内の茅葺古民家
芝の中に咲く小さなワイルドデイジー
ボーエ・モーエンセン邸アプローチ
ルイジアナ美術館



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平成25年度インテリア産業協会関東甲信越支部地域事業 主催:群馬インテリアコーディネーター協会
  “小布施町修景における建物インテリアを巡る旅”
日時平成25年6月1日(土)前橋発8:00-高崎-佐久おぎのや-小布施町11:30
                            小布施発16:00-佐久おぎのや-高崎-前橋19:30   参加者 41名 
 
                                                          (案内チラシ制作 石川)



本年の群馬インテリアコーディネーター協会主催のイヴェントは会員に毎年期初に実施するアンケート15件中10件の多くの希望があった建物見学会を採り上げました。

一言で「建物見学会」と言っても、その対象は多岐にわたります。
1.歴史的建造物
2.著名な建築家やデザイナーが関わった建造物〈新・旧)
3.建築物のみならず、景観形成(修景)、町・村〈地域)興しなどのトータル事業
4.その他 著名人の暮らし(ライフスタイル)の舞台、会員や身近な人が関わった建物など。

今回は、長野県北東部の小さな町小布施町の修景事業を候補に上げ、群馬IC協会の総会において会員の賛同を得て実施に至ったものです。小布施町を候補に挙げた理由には軽井沢の西域、追分地区を中心に修景事業に取り組んでいるH氏の勧めがありました。氏は、70~80回になるのではないかと、数え切れない程の小布施通いを行っていると言います。
ここならば上記対象のNo.3を中心に1,2も含まれ、インテリアのみならず、建築、デザイン業界で働く人、興味のある人達には有益で興味深いツアーになると、主催者の幹事3名は確信しました。
会員外の一般公募では建築士、デザイン事務所、建築コーディネーター、工科専門学校生、工務店など以外に本テーマに興味のある人達が参加し、数組のご夫妻での参加もいらっしゃいました。定員40名をオーバーし、残念ながら更に多くの方に声がけを行なうことはできませんでした。特に、行政や商工会など町おこしに取り組まれている人達には興味深い企画であったと思います。

長野県一小さな町、小布施は町並修景事業(1980~’87年)に実施された狭い徒歩圏にデザイン修景、建築、インテリアなど見るべきものが集積し、今も進化し続けている町で、全国の地域おこしの手本として、見学者が絶えない人気スポットです。

さらに今回特筆すべきは、小布施町文化観光協会のお世話で町並修景事業の中心人物の一人、小布施堂を中心とした企業グループの総師市村次夫氏の講話を聞くことができたことです。氏は、芸術、文化、建築、哲学など多岐にわたる分野に造詣が深く、そもそも「修景」と言う概念は氏の造語とまで言われています。強固な意志と信念に基ずく修景に対する思いを熱く語られ、参加者の多くが感銘を受けました。

 
 
 
カフェえんとつ前の蔵群に囲まれた石畳広場 市村社長を囲み参加者全員の記念写真 背景の建物2階大広間で講話を拝聴 床の間の2畳大程もあろう高井鴻山の水墨画に圧倒される 
 
   
昼食は水戸岡鋭治氏デザインの鈴花にて 古家を復元したような新築建物に多様な素材とデザインが溶け込む  ホテル枡一客殿の内部通路 
     
     
枡一客殿客室入口サインに北斎画が  山野草のオープンガーデンが素敵な市村町長宅に奥様手製の和菓子カフェコーナーが新設される。抹茶で頂く500円、破格の至福感  
     
     
中村好文氏デザインのカフェえんとつ外トイレドアー色が新鮮  枡一客殿内の宿泊客のためのライブラリー  枡一客殿入口に異国風のペルシャ猫が迎える 
     
(参加者感想アンケートのまとめ)
町歩きガイドの案内で修景エリアを中心に見学。ガイド案内を付けたのは好評であった。
外観、エクステリアを含め町全体が新旧調和の取れた落ち着いた雰囲気で癒された。
また、オープンガーデンが各所にあり、美しい新緑のもと、通り抜けの径や敷地内の小川が景色を成し、開放感と歓迎色を感じさせてくれた。
修景の中心人物、小布施堂の市村社長の講話で、氏は、確固たる信念、高い志を熱く語られた。特に古いものを大切にし、行政に頼らない町づくり、建築は重要なコミニュケーションのツールとの話しには多くの参加者が感銘を受けた様子。
歴史ある小布施町の土台〈素材)の良さに加え、氏のようなリーダーシップ、キーマンの存在があったればこそ成し得た町おこしとの印象を強くした。
また、多忙な市村氏の講話を拝聴できたのもインテリア、建築、デザイン関係の大勢のツアーだからこそ力を入れて応えていただけた貴重な機会であった。

(感想)
小布施堂市村社長の講話、町歩きガイドで町並を見学。
現在私が暮している町並は、時代とともに変化した沢山のスタイルの建築であふれていて統一した町並とは違った方向に進んでしまっているなと・・・。
市村社長がおっしゃられていた“外部空間が心地良いものとする。”という考え方とインテリアから攻める“室内空間を心地良いものにする”がコラボレーションできたら面白いなと思いました。
町並についても、オープンガーデンや栗の小径、建物の統一感、その場所にいるだけで心が落ち着いたり、綺麗だなと感動できたり、
人の心を動かせる町並は本当に素晴らしいものでした。充実し、貴重な体験をした1日となりました。(記 石川)

協会理事はじめ多くの方々のご協力を頂き沢山の方に参加して頂くことができ、盛会裏に終了することができました。
                                                              
 (幹事 群馬IC協会 石川、羽鳥、星野) 


 
 

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           第20回JIA群馬クラブ 建築展2013 -少林山達磨寺でものづくりの原点を考える-に参加して。

日時:2013年11月15日〈金)16日(土)17日〈日)
場所:少林山達磨寺・講堂(高崎観音山丘陵の一角高崎市鼻高町にある達磨市で知られた寺)

11/15 (金)
12:00 建築家の仕事展(期間内常設)~初心と処女作~
13:00 協力会セミナー ~建築家を支える技術~
15:00 達磨寺境内「タウトの思惟の径」散策
案内講師 広瀬正史(少林山達磨寺住職)


11/16 (土)
13:00 記念式典
13:20 連続企画
「二人の外国人建築家/タウト&レイモンドin群馬」
第4回~井上房一郎とタウト&レイモンドを考える~
「日本最後のパトロン井上房一郎とものづくり」 講師 熊倉浩靖氏 群馬県立女子大准教授
15:00 群馬の建築家と話そう①パネルトーク


11/17(日)
10:00 ぐんまの建築家と話そう②パネルトーク
11:00 茶会~洗心亭~ 




軽井沢との深い縁のあるレイモンド夫妻と終生親交を持った群馬の生んだ文化芸術の偉大なパトロン井上房一郎氏の話とあって中日16日に参加した。
所属する群馬インテリアコーディネーター協会事務局が会員参加とりまとめのため申込み。会長は所用のため出席できず、会員の参加者も他になく、何と来賓扱いで大きなリボンを付けられ、最前列の指定席が準備され一瞬慌てる。

JIA(日本建築家協会)群馬クラブではタウトがエリカ夫人と2年2か月程、6畳と4.5畳二間に鉤の手に内廊下の回った簡素な木造の小家屋「洗心亭」に暮したここ少林山達磨寺を舞台に建築を絡めた企画が開催されてきた。(洗心亭は、山形県米沢市出身の佐藤寛治農学博士(1879~1967)の別荘として建てられた。佐藤は東京帝大教授から東京農大学長となった人。)

今回はシリーズ4回目として、タウトとレイモンド二人と親交のあった井上房一郎氏との関わりについて比較年譜が準備され、井上氏に25年間秘書役的な立場で仕えた熊倉氏の講演とあって興味満載。
氏は、他では聞けない知られざるエピソードや世間で言われている誤解などについて語られた。


-建築家のしごと展-
講堂の左右三間続きの両脇部屋(中部屋は講演会場)に主だったJIA会員の「初心と処女作」のパネルが展示されている。
群馬IC協会会員関連では〈株〉米田設計、(有〉HIRO建築工房の作品が展示されている。
 

       
       
       




熊倉浩靖氏
群馬県立女子大准教授
(群馬学センター副センター長)
特定非営利活動法人NPO群馬理事
エコアクション21地域事務局
群馬責任者

 


講演 ~二人の外国人建築家
/タウト&レーモンドin 群馬~
   「日本最後のパトロン井上房一郎とものづくり」

     
        講師 熊倉浩靖氏 群馬県立女子大准教授 
                                                                

二人との出会い

井上房一郎氏が1833年軽井沢に開店した工芸品店「ミラテス」にレーモンド夫人が客として来店したのを契機にレーモンド夫妻と終生の友に。

また、1934年日本を代表する建築事務所の一つ、(株)久米設計の創立者久米権九郎(1895~1965)や山口県萩出身の建築家蔵田周忠(くらたちかただ 1895~1966)達の紹介からタウトとの縁が始まるなど二人との出会い。
(世間では、タウトを井上氏が自ら招聘高崎の山中少林山達磨寺敷地内に匿ったように語られるがそれは違う。群馬出身の先達久米権九郎氏等からの依頼であったと言う。)

文化・芸術分野において偉業を果たした井上氏の事業家としての人となりも知ることができた。(40歳で井上工業の代表に着き、初期は大変な時期もあったが退陣されるまで隆盛を極めたと言える。)
来賓として出席されていた元井上工業の社長S氏が事業家、社長としての井上氏について語られた。その幅広い人脈から話しを通してくれ営業推進へ偉大な役割を担ったと言う。また結果責任は最後は社長の自分にあると、逃げることはなかったと言う。)

流石、秘書役的立場で25年間井上氏に仕えた熊倉氏の話は一般では聞くことができない興味満載であった。

 
 






ここ軽井沢にはタウトの遺構有無は知らないが、レーモンドの幾つかの作品が維持保存されている。
聖パウロカトリック教会(1935年)、新軽井沢スタジオ(1962年)現レーモンド建築設計事務所スタッフであった北沢興一氏所有、塩沢湖畔に移築されペイネ美術館として運営されているアトリエ夏の家(1933年)など。 


講演の中で、軽井沢の地縁として、1833年旧軽井沢商店街に開店した工芸品店「ミラテス miratiss]について触れられたが、熊倉氏はその場所や詳しいことは知らないと言う。
幸い会場に高崎在住染色家吉村晴子氏が貴重な参考品を持参披露された。軽井沢のミラテスで売られていた広幅生地で縫製されたブラウスやジャケットとデザインの元となった今で言う古い見本帳だ。井上家親族から出たもので、古布のスウォッチ(swatch)が沢山納められている。

ミラテスではタウトと井上の作品が売られていたというが、80年前のデザインが今でも古臭さを感じないモダンな品の良い広幅布地が売られていたとは外人や先進的な富裕層の別荘客を惹きつけたことは想像に難くない。

この店にレイモンド夫人でデザイナーのノエミ夫人が客として来店し、これを契機にレイモンド夫妻との終生に亘る親交が続いた。

なお、井上氏の山荘は沓掛の現星野温泉の近所にあったと、生前の井上氏がおぼろげな記憶で話されたのを聞いたことがあると言う。


1985年にはミラテスの銀座店が6丁目裏通りにオープン。タウトと井上の印が押された工芸品が売られた。デザイン性豊かでおしゃれな工芸品は人気を博し、ウインドーショッピングを楽しむ多くの人もいたと言われる。

今でこそ人気の工芸ギャラリーや雑貨店を80年前に軽井沢と銀座に開店した進取の気性には驚きだ。
ミラテス開店の狙いは金儲け目的のビジネスではなく、タウトの経済的支援の糧を得ることと見られているが、古里群馬の生糸に代わる新製品〈工芸品)の大きな希望に満ちた模索であったともいえるのではないか。

ミラテスの収支尻は赤字であったと言う。
いくら人気を得たとはいえ、外国人やハイカラ富裕層の少数顧客相手では、銀座でのコストや軽井沢での5~6カ月営業を考えればむベなるかなといえる。

軽井沢や銀座の店が何時まで続いたのや、どの程度の量が売られ、軽井沢の古山荘に残されて、今発見されているのかなど興味深い。今後情報収集をして行きたい。

 
軽井沢ミラテスで売られていた広幅生地で作られたブラウスとジャケット
今吉村氏が着ている上下も当時の広幅で縫製されたもので、とてもお似合い 
 
染色家吉村晴子氏 
高崎染絹の名を高めた吉村紅染の創業者家に生まれる。
23年度高崎文化賞受賞

軽井沢ミラテスで売られていた自家で染めた
広幅生地で縫製されたブラウスやジャケット。
今でも古さを感じず品の良いモダンさに驚く。

―聖ポーロカトリック教会で使われていた椅子に纏わる話―

現在のベンチ型椅子の前に使われていた椅子はジョージ・ナカシマがデザインした素朴な椅子と理解している。

軽井沢の知人が所有し、見せてもらったことがあるが、樹皮を剥がした木の枝で骨組みが形成され座面と背もたれはガマで編んだもの。素朴でシンプルなもので、後のジョージ・ナカシマの作風を彷彿とさせるものである。

熊倉氏の話の中に「聖ポーロカトリック教会の椅子は伊勢崎の石原寅三郎の協力を得て、井上氏が1931年に設立した「高崎木工製作配分組合 」が受注納めたものである」との驚きの初耳。
果たしてこの椅子とはジョージ・ナカシマの椅子なのか? 知る人を探し確認したいものだ。
 

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