北神戸 丹生山田の郷
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異説・小部(「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)関連リンク

萬福寺「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)によれば、大化2年(646年)に摩耶山に寺を開いたと言う伝説上のインドの高僧法道仙人(解説関連リンク)が小部の萬福寺(写真左)を宿坊としたのが小部村のはじまりだそうな。

その後、奈良時代に藤原純友(解説)を討伐した帰路、小部の地で没した右大臣橘遠保(解説)の親族・従者の一族が小部に荘園を拓き、現代に至るまで小部での中心的な役割を果たしてきたとの事で、戦国時代には、西摂津の一向宗の拠点として三木城の別所氏や丹生山明要寺など反織田勢力と共に秀吉軍と激しい戦いを繰り広げたという。(小字やかつてはレストランの名前、屋号などに「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」で言う橘一族の名前が多く残っていた。)

以下では、「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)に基づく小部の歴史、人脈を紹介。

東小部小部の歴史

(主として『神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)』(*19)の記述に基づく   
 −− かなり地元への思い入れの強い記述になっており、また根拠も不確かな面が多いため、信憑性については割り引いて考える必要がありそう)

右の写真の下方が旧の小部の中心と思われる集落。神戸電鉄の線路の向こうに萬福寺が見えている。


西暦和暦小部の出来事備考

646 大化2法道仙人(解説関連リンク)が小部の庄の萬福寺を摩耶天上寺関連リンク)建築の宿坊としたのが小部村の起源太平記?(解説


941 天慶4橘之遠保(解説)、藤原純友(解説)討伐の帰路、小部の地で病没。その後、縁者・従者(三士十呂)が小部に土着し、明治以降まで東小部の中心的一族を形成太平記?
1180 治承4平清盛(解説)により摂津福原に遷都
当時、比叡山にみたてた丹生山明要寺に参詣の途中、小部で湯治(区役所付近)
出所不明

1284 弘安7長田左衛門尉教経(長田本家の祖、解説)、蒙古来襲(=1274年(文永11)と81年(弘安4)の2回?)に出陣出所不明
1333 元弘3松宮五郎法印(解説)、京都西岡(山崎付近)で北条軍に襲撃を受けた際に助けられた西岡氏(解説)に小部の領地(杉尾神社の東?)を贈る(後述太平記


1334 建武元向(橘)惣山宗近(河内一向宗36人衆・小部一向宗管長、惣山の語源、〜1392(明徳4)、天正時代(戦国末期)という記述もあり真偽不明)西本願寺「貫之集」

1401 応永8小部村に宝篋印塔(写真)建てられる山田郷土史等
1460 寛正元西小部・極楽寺、浄誉存上人により開基(西小部地区集落の誕生期?、一部(内田家:衝原の箱木家(箱木千年家)と血縁、川上家など)は大和時代から居住していた?)

1526 大永6芝山鑑物(芝家(解説)の祖、千利休七哲の一人?、手水鉢の考案者?(丹波相野(あいの)から壷焼き職人を呼んで手水鉢を作らせたのが藍那(あいな)の語源と言われる)、〜1627(寛永4)?、記述毎に年号・年齢がマチマチ)
1579 天正710.25 豊臣秀長軍、小部攻撃
荒木村重の側室、西向オモン、織田軍につかまり焼殺(オモン谷:現鈴蘭台北町7丁目)
(織田軍の武将であった荒木村重の側室が一向宗徒であったと言うのはちょっと信じがたい気がする)
播州征伐記
山田史
梅松論

1604 慶長9中一里山紛争(慶長騒動)
小部東部から南部の山地(中一里山)の領有をめぐる下谷上村と小部村・灘村などとの紛争、 明治9年の裁判で最終決着
山田村郷土史
1700 元禄13中一里山紛争(元禄騒動)
下谷上と灘村(現灘区)の境界争い。奉行所裁定で半国岩が境界となる。背景には稲作の困難な下谷上の山年貢確保の執念? 矛先が小部村に変わる?
山田村郷土史
1800
享和?享和水害で弁天湖(現有馬街道の二軒茶屋辺りから水呑辺りにあった湖)が決壊し、その跡地(元の湖底)を前田徳右衛門が開発
1838 天保9中一里山紛争(天保騒動)山田村郷土史
1853 嘉永6中一里山紛争(嘉永騒動)
下谷上村が摩耶道、弁天池(現二軒茶屋)、天王谷川、鵯越道(現神戸電鉄車庫付近)、白川道(現しあわせの村付近)などで小部村、灘村(現灘区)、石井村、平野村、荒田村(以上、現兵庫区)、白川村、板宿村(以上、現須磨区)などと争う
山田村郷土史

1868 明治元神戸事件を起こした備前藩の後続部隊が徳川道を逃走 徳川道 西国往還付替道
1874 明治7有馬街道開通、走折山を削って小部峠が生まれる出所不明
1874 明治7小部小学校、東の谷(現 山田町小部東ノ谷)地蔵堂を仮校舎として開校
西岡家(解説)が敷地寄贈?
 
1876 明治9中一里山紛争(明治裁判)
小部東部から南部の山地(中一里山)の領有をめぐる江戸初期以来の紛争に 下谷上村が勝訴し自領とする
山田村郷土史
1881 明治14小部村誕生

1922 大正11
〜12
萬福寺北西の山林に「神戸新しき村(解説関連リンク)」の開墾(*24)埋もれた神戸の歴史

1928 昭和3神戸有馬電気鉄道有馬線(湊川・有馬温泉間)開通
1938 昭和13神戸有馬電気鉄道三木線(鈴蘭台・三木間)開通
1947 昭和22山田村が有馬町、有野村と共に神戸市兵庫区に編入
1970 昭和45神戸電気鉄道 北鈴蘭台駅開業
1983 昭和58惣山町誕生(他の住宅地については、山田村の歴史参照)

小部の橘一族(橘遠保の親族・従者の子孫、「三士十呂」と称した)

氏(当時)その後の姓現姓屋号備考
三士橘保圓
(やすえん)
橘−向/向井 向井惣山宗近の祖
橘保維橘−向/向井朝民家 
橘保景橘−向/南向南川家 
 ? 東氏長田氏 朝民家の分家?
天台呂大東氏平山家
二代呂向氏中東家じだはん
三代呂向氏小西家三代呂
四代呂向氏小西家よだはん
五代呂向氏松宮家ごろだ山田郷土史では「ごろだ」は竹上氏
六代呂向氏小西家ぶんだはん
七代呂向氏中川家ななだいさん
八代呂向氏中東家はったい
九代呂向氏-東氏東浦家くろだいさん
十代呂西向氏大西家ぢゅだはん山田郷土史では「じゅうだはん」?

旧の東小部集落(現小部小学校北側)から小径を100m程登った惣山の中腹には惣山墓地(写真右下)があり、朝民家、南川家、長田家をはじめ、小部集落の一族の代々の墓石が並んでいる。

小部のその他の主要姓

惣山中腹にある惣山墓地(後方は惣山の住宅地)
西岡家
鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)、護良親王の北条幕府追討の令旨を受けて六波羅探題攻略のため赤松氏とともに(に付き従って?)京都に兵を進めた小部の松宮五郎法印が京都山崎で六波羅軍の待ち伏せにあって孤立した際に、土着の西岡藤兵衛が六波羅軍の背後から松宮軍に加勢した
西岡氏に小部まで送ってもらった松宮五郎法印は息を引き取る前に自己の所領の一部を西岡氏に分配し居住を願ったのが小部の西岡氏の始まり
木戸家
由来不詳。芝山監物が(手水鉢製作の為に?)入植を許可して集めてきた一族?。かつての一本松(鈴蘭台駅南側の神戸電鉄車庫付近にあった大木の松、嘉永4年(1851)落雷で倒れた)付近に居住していた
小部橘の一族ではないが、一里山紛争を通じて下谷上村の領有となった一里山も含めて小部の多くの土地山林を所有
内田家
西小部の集落発生前の先住者
平安時代から続く衝原の箱木家(箱木千年家)と血縁
川上家
内田家と同様、西小部の集落発生前の先住者
由来不詳。源氏の末裔? 縄文時代からの土着民? 居住地はかつては小部とは道がつながっていなかった(山田北部の谷筋側につながっていた?)

(参考)このページへのリンクページ

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