ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.281〜290
ヨーン・スウェンソンという人の書いた、『ノンニとマンニのふしぎな冒険』という本があることを知った。
この人は、カトリックの神父さんらしいのです。児童文学の名著みたいだったので、読んでみたく思いました。
『ノンニとマンニのふしぎな冒険』は読めなかったけれど、昔でていた、『ノンニとマンニの冒険』を読みました。
訳の山室静さんが、解説で、(この本の初版が1976年ですからその時点で)スウェンソンの書いたものの訳がいくつか日本でもでていて、御自分でも二冊(『ノンニ少年の大航海』、『ノンニ兄弟の冒険』)を訳されたことを書いている。
でも私が読めたのは、この「ノンニとマンニの冒険」だけ。「ノンニとマンニの冒険」、「鱒とり」、「アフリカの砂漠で」の3つのお話が入っています。
ノンニというのは、スウェンソン自身の少年時代の呼び名で、お話も、自分のことだそうです。いくつもお話があるらしいですが、アイスランドで暮らした子ども時代のことを書いた話が一番楽しいと、山室さんがこの3つのお話を選んで収めたそうです。
今でている「ノンニとマンニのふしぎな冒険」はまた違うお話でしょうか。読んでみたいものです。
スウェンソンと言う人は、昔、1937年に、日本にも来て、「第二のアンデルセン」などと新聞に書かれたんだそうです。
「日本アイスランド協会」のサイトに、 スウェンソンの訪日70周年記念の展示会とシンポジウムのことが載っていました。2008年秋にあったんですね。知らなかった。
シンポジウム「アイスランドの神話・歴史とノンニ童話」というの、
司会は、あれ、伊藤盡さん、トールキンのエルフ語の研究している人だ! わぁー、聞いてみたかったなあ。
(参考:[55]『指輪物語 エルフ語を読む』)
鱒をとるノンニの奮闘には、誰もがひきつけられ頷くところがあるでしょう。
山を登るノンニと弟のマンニの冒険。ふたりが山の上から見た眺め。
白夜なのでしょう。山から帰れないと困り始めたとき、既に夕日の時刻になっていたようですが、 それからの夜の長いこと。ハラルドと過ごし、幼い二人は眠っても、ハラルドは、二人の家まで降りて二人の安全を報告して戻ってくるのですから。夜中におきた二人が外にでると、山は夜のはずなのに、うっとりとした色に染まっています。
西は、青く、「数かぎりない色合いを持ち」(p.117)
、東は、炎のように火のように輝きます。
「山の頂という頂には、すべてまっかに燃える炎がそそぎかけられていた。しかも、まわりのすべてがなんと厳粛に静まりかえっていたことか! 大きな山地全体が、まるで深い祈りにふけっているかのように――」
(p.118)
美しいです。
『ノンニとマンニの冒険』、読めてよかったです。スウェンソンの書いたシリーズがいくつもお話があっても、絶版になっているのが惜しいです。
本当は、トミー・デ・パオラの絵の、同名の本を読むつもりだったのが、書庫から出してもらったら違ったのを、気づかずに帰ってきました。*1
せっかくなので、読む事にしました。
小学生くらいの子でもやさしく読める作品だと思います。
絵の狩野富貴子さんは、奥付のページで『ちいさなチャンタラ』という絵本の人だと知りました。
やさしくかわいらしい絵がらです。でも、私は外国の作品はどうも外国の人の絵で読みたいと思ってしまうほうなので、その点はちょっと残念でした。
内容は、作者の人が、バーモント州出身で、そのバーモント州を舞台にしています。
少女アリエルの成長物語、といってしまえばそれだけかもしれないけれど、 自然に囲まれた暮らし、鳥のガン(カナダガン)のむれを見つめるアリエルの思いが、伝わってきます。
弟か、妹が生まれるアリエルのお家。嬉しいけれど不安なアリエルをおばあちゃんが包みます。赤ん坊におくるキルトをつくるのに、アリエルの絵の才能を見たおばあちゃんは、 デザインを頼みます。
アメリカ先住民の伝説に、「星は太陽の子どもたち」(p.25)
、というのがあるそうです。
太陽が、星を起こすのを忘れると、そんな夜はまっくらになります。でも、星を見上げるアリエルに、星は眠っていないで輝いています。
「ただね、わたしは、あんたには、夜空のほうがにあう、と思ったんだよ。」
(p.112)
ガンのむれ、季節の移り。自然を感じて育った作者の思いが、表れているように思いました。
キンジーワーノックさんは、メアリー・アゼアリアンの絵本にもなっているようだし*2、他にも本があるようです*3。読んでみたいです。
(追記)
*1(参考:トミー・デ・パオラの[291]『おばあちゃんのキルト』を後日読む。)
(追記)
*2(参考:[293]『夜明けまえから暗くなるまで』を後日読む。)
(追記)
*3(参考:[297]『スウィート・メモリーズ』を後日読む。)
トミー・デ・パオラの新しい本が出ているのに気づいて、読みました。
トミー・デ・パオラは、民話や伝説のお話が多いけれど、今度は、これ、自伝的なものなのかな?
トミーのおじいちゃんは、トムという名前なので、自分のことをトムと呼んでくれるように言うのでした。
トミーって、きっと、トミー・デ・パオラ自身のことじゃないかな、と思うんですが。
最初と、最後に、モノクロ(セピア色)をした写真、の絵がある。おじいちゃんのトムと、トミーが写っている。トミー・デ・パオラ自身、今はもう大人なわけだから、そんな写真を見ながら、おじいちゃんを思い出している、ということをあらわしているのかもしれない。
このおじいちゃんが面白い。
アイルランド人のようだ。本の通りだとすると、トミー・デ・パオラはアイルランドの血筋なんですね。*
チキンのあたまや、足のところは、びっくりしました。あまり気持ちのいいものじゃないけれど、 お母さんに内緒でしたこと、先生にしかられたこと、それを包んでしまうおじいちゃんの大きさと茶目っ気が感じられました。
トミー・デ・パオラは、こんな家庭で育ったのかなと思ったら、微笑ましく、うらやましくなりました。
ひとつ、昔の時代だから、あたりまえだったのかもしれないけれど、子どもの前で、パイプをすうのはよくないと思うけど…。
*(追記)
[198]『ジェイミー・オルークとおばけイモ』のところに、アイルランド人のおじいさんのことを書いていた。むかしばなしをしてくれたおじいさん。そんな環境で育ったからこそ、今のトミーの下地がそこにあるのかもしれません。
[276]『ムッドレのくびかざり』、[279]『マツの木の王子』につづき、フェリシモ出版の本から。 訳は石井桃子さんです。
絵のスロボドキンは、名前は聞いたことがあるけれど、他ではまだ絵を見たことがないように思う。
スウェーデンに住む、ピップ=ラルソン家のきょうだい7人のすえっこのOちゃん。
まだ小さいんですよ。五つ。本当の名前は、オフェリア。だけどただO(オー)ちゃんと呼ばれています。
他のお姉さん、お兄さんも、シェークスピア劇に出てくるという名前、 例えばデズデモーナなんていう名前を持っていますが、普段はデッシと呼ばれてます。デッシ姉さんはもう十九で、Oちゃんの世話もしてくれます。
Oちゃんが巻き起こす騒動や、普段の生活の中で末っ子の小さい子が味わう気持ちが、明るいタッチで描かれます。国や生活、兄弟の数や文化は違っても、木にのぼったOちゃんの気持ちなんか、よくわかりますね。
無邪気で、しかしおそるべし、Oちゃん。
「いやはや!」(p.46)
「Oちゃんにもおそれいった……」(p.47)
リンドキストさんの声が、聞こえてきそうです。
Oちゃんのリボンをたくさん頭につけたラッセ兄さん、好きなアグネータがユーモアがわかってよかったね。
『カルメンシータの歌』を一緒に演奏してくれた先生。子犬を飼うようになったわけ。おたふくかぜと、冷たいアイスクリーム。ほほえましく、どこか懐かしい、エピソードの数かずです。
学校の卒業試験の日に、飾り付けた馬車などで祝うところは、スウェーデンの風習に驚きました。
「訳者あとがき」
によりますと、以前、学習研究社からでていた本の復刻です。下村隆一さんというかたとの、共訳でした。
下村さんはスウェーデン語から、石井さんは、当時イギリスで出版されていた英訳のものから、邦訳をすすめていたそうですが、下村さんは最後の章を残して、お亡くなりになりました。
石井さんは、最後の章を英訳から「痛恨の思いで」(p.210)
訳されたそうです。
復刊にあたり、2002年現在、下村さんのご遺族とは連絡が取れていないようでした…。編集部からは、「ご連絡いただきたい」旨が記されていましたが、どうなったのでしょうか…。
(追記)
奥付の原書の表記を見ると、原題が「PIP-LARSSONS LILLA O」
となっています。こちらが、スウェーデン語の題名で、表紙などに「LITTLE O」
とあるのは、英訳のほうの題名でしょうか?
「LILLA」って、「小さい」のことでしょうか。 ベスコフの『ちいさな ちいさな おばあちゃん』(参考:『ちいさな ちいさな おばあちゃん』(絵本の項へ))の原題も、LILLA って入っていました。
この絵本、好き!
このミルクやさん、好き。
毎朝4時におきて、配達店にいき、ミルクやクリーム、チーズなんかを積み込んで、表通りも裏通りも、下町もおやしき町も、配達してまわります。
「今日も一日、アメリアを ころがすんだ」
という一ページ目の訳、ちょっと目をひきました。
アメリアというのは、ミルクやさんのトラックです。
ダックスフントのシルビアの、絵のフォルムも好き。簡略化された輪郭線というか。
あるとき、ミルクやさんは、配達先の奥様がたと天気の話題をすることに、うんざりして、配達をやめてしまいます。
彼はどうしたでしょう?
楽しくて、ひやひやもして、いいのかなあ…なんて思いながら、読んでいく。
それにしても、なんとのんびりした時代でしょう…。
氷を使っているんだから、昔の設定でしょうね。
あいまに入っている、歌みたいなのが面白い。絵の色合いもいいですね。
マリー・ホール・エッツといえば、この絵本。みたいにタイトルをよく聞く。読んでみました。
表紙の女の子の、正面を向いた顔の表情がとても印象にのこる。
タイトルを先に聞いているからかもしれないけれど、どこか不安そうな、泣き出しそうもみえる、でも何かを信じている、まっすぐこちらを見ている瞳。
目の離れぐあい、顔の上下に対する目の位置。結んだくちびる。印象に残る表情です。
(真っ白なリボンは、編んだ髪を上の方でまとめているのですね)
だから、中身の横顔を見たときは、ちょっとがっかりしてしまいました。あんまりかわいくないというか…。それに表情もよみとりにくい感じ。
私は正面顔の方が、ずっとすきだな。
動物たちが戻ってくるところの「わたし」の目線。
後ろの太陽が、「わたし」をずっとみている。
有名な本なので、きっとたくさん、すばらしい感想があることでしょう。
私は、子どもの頃あまり友達とうまく接することができなかったのを思い出して切なくなる。
後ろの作者紹介のところに、
「動物たちと親しんだ幼時は、のちのエッツに、決定的な影響をあたえました。」
とあります。
[281]『おやすみ、かけす』も、動物たちがたくさんでてきますね。
そういうふうに読めば、エッツの絵本もよく、理解できるかな。
東洋の民話っぽい感じの絵本と思っていましたが、読んでみると、[275]『われたたまご』の小野かおるさんの絵本でした。
「中国桂林の伝説」
をもとにしたお話から描かれた絵本のようです。
ひらいてみると、表紙の裏の部分に、竜の絵があるではありませんか。
深い山奥の村。迷い込んできたやせた男の子を、みんなで育てることにした村人。ニューワと名づけます。 水牛のせわがニューワのしごとです。
日照りの年、淵の中洲で草をみつけたニューワは、しかし中洲に渡る手だてがありません。
これって、「竜宮」のお話?
美しい娘はりゅうおうのひめぎみです。「三番目の ひめぎみ」
というのが、ポイントな気がします。
(一つ前の記事の『美女と野獣』でも、ベルの上には意地悪なお姉さんが二人いたと思うし…。)
東洋の伝説でも、重要なお姫さまは三番目なんだな。
(参考:三人の末っ子の話 [243]『やまなしもぎ』)
りゅうおうは、絵はでてきたけど、実際の姿はでてこないみたいだった。
ひめぎみは、竜王の娘なんだけど、人間と同じようなお姫さま。ということは、王は竜の姿でないときがあるんでしょうか?
と考えてて、ふと、「浦島太郎」のお話の、竜宮城は、海の底で、竜って海にいるのかなとか。
あの竜宮城は、乙姫様のお城と思ってたけど、竜王の城とはあまり聞かない気がする。竜がでてこないのに、竜宮城となぜいうの? とか、思った。
浦島太郎のお話は、きちんとしたものを読んだことはないですけれどね。
(そういえば、りゅうおうといえば、[184]『ナージャとりゅうおう』思い出す。海がでてきたっけ?)
おひめさまは、やさしいニューワが気に入ったのですが、わりと強引ですねー…。ここに住むことについてのニューワの気持ちなんかそっちのけ(汗) もちろん、ニューワだって悪い気はしないのですが、水牛のせわは誰がするのかと、あわてます。
そびえたつ九つの山は、高く、いかにも中国の岩山という感じでしょうか? ふうがわりなラスト。こんなのははじめて聞きました。
水牛が、「つやつやと とうがんのように ふとりました。」
というところと、
「おおきな いしが ぶっくりと うかんできました。」
という表現が面白いなと思いました。
「美女と野獣」はディズニーのアニメで見ました。
こちらの絵本、とてもきれいな絵です。幻想的な雰囲気もよくあらわれています。
小さい絵も意味がありますね。野獣が野獣にされてしまったときの絵もありました。
ボーモン夫人の「美女と野獣」というけれど、ささきさんの解説に、このおはなしの起源について書かれていました。古い起源のあるお話なんですね。
ベルの父親は、娘を身代わりにしなければならないから嘆きました。読んでいる私も、(結末は知っているとはいえ)野獣が娘を差し出すように言った時は、野獣は父親の身代わりを求めていると思いながら読んでいたけれど、ベルが心配するように、野獣はベルを食べようとする気配がない。
あとで野獣の言ったことを考えてみると、
「おまえのかわりに死んでもいいというのがいるか。」(p.11)
と言ったのは、身代わりに殺すというのではなくて、やさしい娘がいて、来てくれるならという思いだったのだろうか。
(追記)
(参考:ポール・アザールの[20]『本・子ども・大人』に、ボーモン夫人のこと少し)
絵本です。有名な絵本なのでいつかと思っていた。目についたので読んでみました。
ハリウッドの俳優のマコ岩松さんのお父さん。マコさんのインタビュー記事かなにかで知って、びっくりしました。って、絵本は読んだことなかったんだけど。
雨を待ちわびる幼い子の気持ちが、よく描かれていると思う。
大人になったモモの絵も、そうだけど、切れ長の目が特徴的に思う。日本人てこんなにすっとした目かな、って気になってしまうんだけど…。
大人になったモモが、おぼえていないっていうところは、なんか、ショックだった。
はじめて傘を差した日、というのはよくわかって、そこまでだとまあありがちかな、と思うけど、最後がいいですね。
石井桃子さんの[267]『児童文学の旅』で、やしまさん夫婦のことが書いてあったのを思い出し、そこだけ読みかえしてみた。
石井さんが(原文で?)、「烏太郎」を読んだときの評価の高さに比べて、「あまがさ」のストーリー性についてのこと。
やしまさんと7年ぶりで会ったとき、絵本の話ばかりして、「あまがさ」についてねちねちとたたみかけられると、「烏太郎」に匹敵するような気がしてきたけど、お別れしてから考えるとまた自分の考え…ということを読んでいて、石井さんの書き方がとても面白く感じた。
ねちねちって別に悪い意味じゃないんですよ。きっと、やしまさん、熱心に話したんだろうなあ…とか。石井さんには石井さんの譲れないところがあったみたいだし。やしまさんは絵、石井さんは文、にこだわりがあったみたいなことを石井さんは書いていました。
小さくてかわいい絵本、目について、これにしました。
[205]『もりのなか』のエッツの絵本だった。
青を基調とした絵本で、見た目おちつきます。
「ジェー、ジェー、ジェー」
と鳴く鳥。
あったな。トミー・デ・パオラの[142]『青い花のじゅうたん』。
原題は「JAY BARD」。やっぱり「かけす」のことなんですね。
(ブログの、参考記事:「ジェイウォークのジェイって」
[240]『おやすみなさい おつきさま』の絵本と、雰囲気は少し似ているかな? おやすみなさい系の絵本、というか。
動物の鳴き声などの擬音の繰り返しとか。小さい子に読んであげるような絵本?
読んでいて、あれ、これだけか?とも思ったけど、自分に読んであげようか(心の中で)。
「おねむになった おとこのこ」
の絵が好きかな。
あの子が手に持っているものは何だろう? (パイプみたい…) 左上の丸いものは、最初、月かと思ってたけど、よく考えたら、シャボン玉みたいなので、シャボン玉を吹くものだろうか。
(追記)
(参考:マリー・ホール・エッツの絵本 [285]『わたしと あそんで』 後日読む。)
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