山本作兵衛(1892~1984)は、炭鉱労働者として自らの体験から、筑豊のヤマの仕事と生活を描いた記録画を数多く残しています。ここにある墨画と水彩画は初期の作品です。筑豊のヤマの情景が蘇ります。
生立ち
福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現在飯塚市)生まれ、7才から父について、兄と共に炭鉱に入る。立岩尋常小学校卒業後、1906年に山内炭坑(現飯塚市)の炭鉱員となった。筑豊各地で点々と動きながら、日記や手帳に記録を残した。田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマの生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになり、自らの経験や伝用を基に明治末期から戦後に至るヤマの様子を墨や水彩で描写した。余白に説明を加える手法で1000点以上の作品を残した。画文集『炭鉱に生きる』(1967年)「ヤマの絵師」として知られた。
国内初の記憶遺産
田川市は当初、市内に残る旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓など炭鉱遺産について「九州・山口の近代産業遺産群」の一環として世界遺産登録を目指していた。2009年10月に選考から漏れたが、関連資料であった作兵衛の記録画は、現地調査した海外の専門家から高く評価された。このため、作兵衛作品を保管する田川市と福岡県立大学は方針を変えて、世界の記憶(世界記憶遺産)登録を目指すこととし、田川市が所蔵する県指定有形民俗文化財584点を含む、絵画585点を関連資料(日記6点、雑記帳や原稿など36点)と山本家が所有し、同大学が保管する絵画4点と関連資料(日記59点、原稿など7点)を合わせた合計697点について、田川市と大学共同で2010年3月、ユネスコ本部(パリ)に推薦書を送付しのだった。
2011年5月25日に国内初の登録を受けることが決まった。
[1] |
[2] |
---|
[3] |
[4] |
---|
[5] |
[6] |
---|
[7] |
[8] |
---|
[9] |
[10] |
---|
[11] |
[12] |
---|
[13] |
[14] |
---|
[15] |
[16] |
---|
[17] |
[18] |
---|
[19] |
[20] |
---|