吉弘(父:公務員)が大分市出身だった関係で、中央官僚を経て、地方官のため神奈川県、富山市、この竹田市に移住した場所で、そこが現在では、廉太郎記念館になっている。
竹田の観光のために懇切丁寧な説明がされ、陶器で完成。
家の縁の下にキツネの親子が棲みつきました。廉太郎は大の動物好きだったので、このキツネの親子のことをとても嬉しく思いました。「廉ちゃーん でたよー。」お母さんが縁の下からでてきたキツネをみていうと、廉太郎は油揚げを放り投げ、親キツネが食べものをじっと眺めていました。夕方になると、キツネはいつも現れ、こうしたことは廉太郎の日課になりました。
学歴:1894年15歳で東京音楽学校に入学。1898年 本科卒業して、この時18歳、研究科へ進んで、作曲とピアノに才能を伸ばす。明治時代の前半は無理に「日本語訳詞」をした”ぎこちない歌”が多かった。そこで、日本人作曲によるオリジナルの歌として、最も早く、日本の要望に応じた作曲家となった。代表作には「荒城の月」「箱根八里」。1900年8月には『四季』組曲の中の一つ「花」が人気の高い曲の一つ。この組曲には納涼・月・雪からなっている。
1901年:幼稚園唱歌として、・ほうほけきょ ・ひばりはうたひ ・鯉幟 ・海のうへ ・桃太郎 ・お池の蛙 ・夕立 ・かちかち山 ・みずあそび ・鳩ぽっぽ ・菊 ・軍ごっこ ・雀 ・雪やこんこ ・お正月 ・さようなら
1843年 34歳に時、自ら奔走して設立資金を集め、ライプツィヒ音楽院を開校し、院長となる。作曲とピアノの教授には、ロベルト・シューマンが招かれた。
1901年4月 日本人音楽家で2人目となる、ヨーロッパ留学生としてドイツのライプツィヒに渡り、ライプツィヒ音楽院に留学する。なお、この音楽院設立者は、メンデルスゾーンである。その後、ライプツィヒと竹田とが、音楽を通して硬く友情が結ばれた。その証しとして「友情のバラ」が寄贈されたのである。
竹田の街はこんなトンネルが、あちこちに目にかかるので、トンネル探索も面白いだろう。