所在地 | 山 号 | 宗 旨 | 本 尊 |
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大分県中津市 | 耆闇崛山 | 曹洞宗 | 釈迦如来 |
本耶馬渓は中津市にある山国川の上・中流域及び支流域を中心とした渓谷。1950年に一帯が耶馬日田英彦山国定公園に指定、名勝地である。 青の洞門や競秀峰を中心とする山国川上流一帯。青の洞門は羅漢寺の禅海和尚が、参拝客が難所を渡る際に命を落とさないよう、ノミ一本で掘り抜いたトンネルで、菊池 寛『恩讐の彼方に』で全国的に知られることになった。この禅海和尚はトンネル開通させた後は利用者から通行料を徴収したことから、国内初の有料道路とも言われている。現在は車道拡幅工事によって当時の痕跡は歩行者用道路の一部にノミの痕跡が認められる程度、目立たないが、トンネルを通らずに難所のあった崖側を通るルートが今も残っている。険しい場所ではあるが鎖などを伝って通ることができる。
645年、インドより仏僧が渡来、ぎしゃくっせん(インド釈迦聖地跡に似ていた所)として日本に仏教を開期した。平安時代には山岳仏教の霊地として栄え、円がん昭重が臨済宗祖として建立す。以上のことを知った、足利義満も羅漢寺に帰依する。その時この地を治めていた細川家からも支援を受けた。戦国時代は大友宗麟の支配下、大友領内では邪宗として焼き払われた。これで殆ど伽藍は焼失した。その後、細川忠興の帰依と援助で復興する。近くのことだが、昭和18年ー火災焼失 昭和44年現在の本道は再建。
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如来仏
仏教の最高の存在であり悟りを開いた者、如来仏は仏の起源で釈迦をモデル。初めは釈迦如来像だけ、大乗仏教の時代になると、薬師如来、大日如来などさまざまな如来像が造立。一般には如来・菩薩・明王などすべての像をひっくるめて、「仏像」と呼ぶ、厳密には如来像だけが仏教。そして、地位、財産、家族など一切のものを捨て出家した後の釈迦の姿をモデルに、そのため、一枚の衣だけをまとい、装身具などまったく身に着けていない。
菩 薩
菩薩像は出家前の姿であって、王子時代の釈迦をモデル化、そのため、宝冠をかぶり、ネックレスやイヤリング等の様々な装身具を付ける。もともと釈迦の悟りを開く前の修業時代の呼び名だった。紀元前後に大乗仏教が興起してから、観音・文殊・普賢など様々な菩薩が考え出され、その像が造られるようになった。また、大乗仏教では、すべての人が釈迦と同じ悟りの境地に至る可能性を持っているとかんがえる。その結果、十一面観音や千手観音が登場します。初めて多面多腎像が出現し、これはインドのヒンドウ教の神々の影響も多大。
明 王
7C頃に蜜教成立は大乗仏教がさらに発展。蜜教で考え出されたものが不動明王をはじめとする明王で明王は蜜教の教えを説いた人、忿怒の相を表現。インドで古くから神々が仏教に取り入れられた。
天 神
天は神々のこと、仏像の分類ー天部(ぶ)、四天王、帝釈天等の「天」こと。インドで古くから信仰されていた神々で、日本の「八百万」の神に相当する。梵天や帝釈天のような善の神として、阿修羅のように、初めは仏教に敵対した悪の神もいる。そんな神が釈迦の教えを開いて、みんな仏教に帰依したのである。そして守護神となる。また、仏像の中では、天神がもっとも種類が多い。その上バリエーションに富む。天の中で四天王があり、彼等は、仏教の教えとそれを信じる人守る、東西南北を守る守護神でもある。東ー持国天 西ー広目天 南ー増長天 北ー多聞天。この四天王の中で多聞天がリーダーで、単独で祭られたときに毘沙門天と言う。なを、東・南・西の三天は集団で祭示、そのため、単独で祭ることはない。
羅 漢
釈迦の直弟子の十大弟子のこと、仏の一種、釈迦の十人の高弟で、釈迦の後に弟子達十人が仏教指導。羅漢は正しくは阿羅漢と言い、十大弟子がモデルになっている。理想的な姿は、禅宗寺院に祭られている。仏教の世界では、羅漢は自分の修行を極める存在から、地域菩薩的な存在へ変っていきました。そして、また、庶民信仰の中心でもあった。
高 僧
最澄・空海・日蓮などの肖像すなわち高僧像を指す。他の仏教が人間ばなれした容姿を持っているが、この高僧像は歴史上の人物をモデルに、それで親しみやすいものが多い。よく知られているのが達磨大使の仏像、鑑真和上坐像や一休禅師像などもあります。
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多聞天
北方向の守護神で、インド神話「ヴァィシュラヴァナ」=「神の息子」=「よく聞く所の者」と呼ぶ、四天王の一尊像でこの像を独立像として「昆沙門天」として安置することもある。宝棒ー左手、宝塔ー右手に持っていて、日本では、甲冑姿それも唐代の武将風であって邪鬼=鬼の上に乗る。立像を眺める。
持国天
東方向の守護神で、四天王の一尊像、仏堂内部では釈迦本尊に向かって右手前に位置し、四天王は皆、革製の甲冑を身に着た唐代の武将風のすがたである。刀を携えている。右手ー握り拳にして右腰に、左に刀を持つ。鎌倉時代の作で、足下に邪鬼を踏みつけ刀を持つ右手を振り上げて仏の敵を威嚇し、左手を腰に当てる姿が多い。これもインド神話にある雷神インドラ(帝釈天)の配下。また、立像・坐像どちらもある。
広目天
呼び名は、「こうもくてん」。サンスクリット語「種々の眼をした者」とか「不格好な目をした者」これは「尋常でない眼、特別な力を持った眼」等等、千里眼とも解釈、この天神は、西方向の守護神で、仏堂内では本尊の向って左手後方に安置、日本ではこの天神も多聞天、持国天同様に唐代の 武将風。古くは、筆を持ち、巻紙に書留めている姿だったが、平安時代後は徐々に別の物を持つ姿になっている。雷神インドラの配下。
増長天
南方向の守護神で、仏堂内部では本尊の向って左手前に原則として安置。日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代武将風の出立。刀や剣の場合、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿、増長天の前には鬼形の従者がいて剣を持ち跪いている。
梵 天
サンスクリット語「ブラフマン」バラモン・ヒンドラ教の宇宙の創造神の意味。仏教に最も早く取り込まれ、帝釈天と並び天部最高位に立つ仏像である。釈迦本尊の両脇に梵天・帝釈天が三尊型式の始まり。菩提樹下で悟り、仏陀となった釈尊は法を悟った楽しみ、悟りを開いた喜びに何日も浸っていました。その内容はあまりにも高度なもの。その理由は、一般の人に説いてもわかるはずもなく、「この悟りのよろこびの中に生涯を終えるのも悪くはない」と思っていた。そこへ梵天の出現、「あなたが悟りを開いたのはいったい何のためであったのでしょうか。たとえ難しくとも多くの人の救済のために、あえてその法を説かねばなりません」と釈尊に告げた。
梵天は4つの顔を持つ、この4つの顔で宇宙のあらゆる存在を目を光らす。
梵天は帝釈天とよく似た姿像。帝釈天ー白い象に乗っている。梵天は駝鳥に乗っている。
梵天は頭上を宝けいを結い上げ、中国風の礼服を着ている。
梵天は払子(はっす)、鏡などを持っている。
帝釈天
蜜教の守護神である天部の一つ。妻は阿修羅の娘ー舎脂。梵天と一対の像で表示されていることが多い。阿修羅とも戦闘した武勇の神。仏教に取り入れられて、釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった。日本では頭上を宝けいを結い上げ、中国式の礼服を着ている。着衣下に甲冑を付けることもあり、手には金剛杵や蓮茎などを執ることがある。
竜 王
天 柱の一柱 十二天に含まれる (天神の一人)
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