戸外の風景を描き19C.後半の「印象派」先駆者たち、ミレー・コロー・ドービニー達。
ジャン=フランソワ・ミレー
フォンテーヌブローの森のはずれバルビゾン村に定住して、風景や農民の風俗を描いた画家たちを今日「バルビゾン派」と称して、ミレーを代表に、テォドール・ルソー、カミーユ・コローなども先駆者である。
早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれました。これは、ミレーの作品が大地と共に生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情が込めて描いてあるから。ここでは『ひと匙』を。
ひと匙 |
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ミレーに関する、こんなお話
ミレーがある日散歩をしていると、美術商の店先に掛けてある彼が売った裸体画を2人の男が眺めているのに出くわした。「この絵は誰が書いたんだい?」「ミレーって男さ」「ミレー?どんな絵描きだい?」「いつも女の裸ばっかり描いているやつさ」2人の男はそう会話して立ち去った。それを聞いていた彼は愕然とした。お金の為に仕方なくとは言えども、裸体画ばかり描いているせいで、世間に低級な好みを狙っている画家であると評価されているのだと悟ったのだある。それ以後、彼は一切裸体画は描かない、と心に決めたという。
19C.後半「印象派」華やかに台頭してくる、モネ・ルノワール・シスレー・スーラに代表される。
クロード・モネ
印象派を代表する、「光の画家」の別称があり、「時間や季節とともに移りゆく怒りと色彩の変化を生涯追及した画家でその画像そのものだ」。少年の頃より絵画は巧みで、10代後半の頃には人物の戯画などを地元の文房具店の店先置いてもらっていた。その頃、風景画家のウジェーヌ・ブーダンと知り合うことにより、ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた。モネは彼に出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われる。
アンティーブ岬 |
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ピエール=オーギュスト・ルノワール
彼も印象派の画家である。後期に作風に変化が現れ始めたので、後期印象派とされることもある。風景画、静物画もあるが、代表作の多くは、人物画である。彼は、1854年、13才で磁器工場に入り、絵付職人見習いとなるが、産業革命や機械化の影響で、1858年に職人としての仕事を失う。それで、画家を目指して、1862年に官立美術学校入学。並行して1861年からはシャルル・グレールのアトリエに入り、ここで、モネ・シスレー・バジールら、後の印象派の画家たちと、知り合っている。
エピソード
アトリエで制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだ」と言ったところ、ルノワールは「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と傲慢な人間であったようだ。とこれは著名な話である。
黒い帽子の娘 |
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フィンセント・ファン・ゴッホ
パリやアルルに住居を構え、フランスの印象派や浮世絵の影響を受けた作品を描いたポスト印象派の代表的画家。生前は売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑(La Vigne rouge)』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった。それは、『医師フェリックス・レイの肖像』1890年に銃で自殺。彼を終生援助した弟 テオドルス(通称 テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されている。現在でこそ、高い評価が出されているのだ。
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