大原バス停終点から、すぐに田舎道を歩き始めるとこの道標が目に付く、左へ京道 右へ寂光院と読める。随分昔から立っているのだろう。約15分ぐらいの道程だ。
寂光院の茶室への案内:孤雲の案内口の待合で、ここで茶会も催されていることであろう。静寂な陰居感のある雰囲気が漂っている風情。
寂光院の寺伝では、594年聖徳太子が父の用明天皇の菩提のため開かれた。江戸時代の地誌では、融通念仏の祖、良忍が開いたとも、また、現在では、『平家物語』に出てくる健礼門院徳子(1155~1213)のゆかりの地としてしられている。ここから見える本堂は2000年5月9日放火で焼失。
1186年4月下旬 後白河法皇は忍びの御幸で健礼門院の閑居を訪れた折の一首で、『池水に汀の桜 散り敷きて、波の花こそ盛りなりけれ』ーー大原御幸から なおこの時汀の池と桜は今も当時を忍ぶことは?。
姫小松は細長い柔らかい松葉が5本一組になってついている五葉松なのである。焼失以前は15メートル程もある高さの立派な松の木だった。本堂と同時に被災したために現在では神木として残してある。
観光や団体ツアーで訪れる人々が大半でしょうが、頭脳の刺激にはなりますよ。
この 石碑のお詞 32世院主 滝沢 智明 作。
桃山時代頃の建築の特色を残している本堂で、2000年5月9日未明、放火により焼失した。2005年6月2日 小松前住職の「すべて元の通り」の言葉通りに再建築となる。檜材で屋根は木柿葺(コケラブキ)で、正面3間 奥行3間 正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式蔀戸で間側障子戸で、ここに元のようによみがえった。
本堂前の汀の池のそばには、桜と松が寄り添うように立っていて、桜を「汀の桜」松を「姫小松」と云う。放火によりこの桜も被災して短く切断されている。今は、神木としてお祀り。
江戸時代の建立であって、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。1752年2月の鋳出鐘名である、この当時は薫誉智聞尼僧で、浄土宗僧侶が在住。この「鐘」の鋳物師は近江国 太田西兵衛重次の作。
執務および庶務関連の仕事室かな。
門前15メートル手前に立つ。
寂光院門前の手前に一直線の石畳の陵墓の径を上り詰める。そこから、草生の郷を見ることのできる高台に徳子の墓所あり。