下関にて

下関にて

唐戸観光船

  唐戸とは、国道9号の唐戸交差点を中心としたエリア一帯の名称。交通の要衝で、中心エリアだった唐戸市場は2001/04/25に海響館(水族館)の整備とあわせたウォーターフロントの再開発事業により、観光の要素を強め、魚介類を中心としたカモン・ワーク(総合市場)となっている。


①

②

③

④

⑤

春帆楼

  1895/04/17:下関条約が春帆楼で締結された。日清戦争後の講和会議における条約(日清講和条約)の場所であった。同年:03/19、全権大臣の李鴻章と李經方が下関に到着。03/20、全権委任状を持っていることを日本側:伊藤博文、陸奥宗光とがお互いに確認、この春帆楼で講和会議が始まる。赤間神宮に隣接し、安徳天皇の阿弥陀寺の方丈だった所が廃寺となりその後、藤野玄洋(中津藩 眼科医)が買収して1867年に「月波楼医院」として開院していたが、玄洋死後、未亡人・ミチが旅館兼料亭として、伊藤博文の名付けで「春帆楼」として創業したもの。1888年 伊藤により解禁をとかれた「ふぐ料理」公認第一号店となった。この敷地内には、伊藤・陸奥の胸像がある。


①

②

③

④

⑤
  ここの不動産は、転々と変わって運営されているのだ。地産トーカンからジェネラスコーポレーションにより運営、2003年10月に地産が分社化された後、現在では、2004年9月にオリックス不動産に株式譲渡された。この経緯もあって、法人「株式会社 春帆楼」の本社所在地は、東京都港区となっている。

赤間神宮

  下関市に在る。官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。江戸時代まで安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚もあり、「耳なし芳一」の舞台でもある所。

境内散策:●安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじの みささぎ)●日本西門鎮守八幡宮●大連神社●紅石稲荷神社●平家一門の墓(七盛塚) 平家一門の供養塔 14名。●芳一 堂  「耳なし芳一」を祀り、芳一の木像が安置。●水天門 竜宮城を模した神門であって、「水天」の名は、安徳天皇が水天宮の祭神だから。

(1)
(1)
(2)
(2)
(3)
(3)
(4)
(4)
(5)
(5)
(6)
(6)
(7)
(7)
(8)
(8)
(9)
(9)
(10)
(10)
(11)
(11)
(12)
(12)
(13)
(13)
(14)
(14)
(15)
(15)
(16)
(16)
(17)
(17)
(18)
(18)
(19)
(19)
(20)
(20)
  1185年の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は御裳川で引き上げられ、下関の紅石山麓の阿弥陀寺境内に埋葬された。  1191年勅命により御陵に御影堂が建立され、健礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まり。  明治になって神仏分離により神社となって「天皇社」と改称した。  1875/10/07に赤間宮に改称し、官幣中社にランクを持ち、1940/08/01に、官幣大社にランクアップし赤間神宮となる。現在存在する神社は、1965/04に新社殿が竣工したのである。

見上げる(関門橋)


①

②

③

④

⑤
所在地 長さ 最大支間長 高さ 形式 素材
日本 関門海峡 1068m 712m 路面幅 26m 海面上 141m(主塔) 吊り橋

壇ノ浦


①

②

③

④

⑤

⑥

⑦

⑧

⑨

⑩
源氏 平氏
(1)指揮官 陸:源 範頼、海:源 義経 (2)戦力 800艘(3000とも) (3)損害 不明 (1)指揮官 平 宗盛、平 知盛、平 経盛(2)戦力 500艘(1000とも) (3)損害 壊滅

長州砲

  下関戦争とは、長州藩と列強四国(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ)との間に起きた事件。1863年と1864年の二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突のこと、歴史的には、戦闘行為を馬関戦争と云い、1863年 下関事件として「原因」になっている。1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。


①

②

③

④

⑤

⑥

⑦
  1858年に江戸幕府が欧米列強との間で安政の不平等条約結んだことに対する反対(攘夷運動)が、長州藩において1863/05/10~1864/08/07にかけて戦争が正攻法の形で表面化した。これは、幕府命令を受け、関門海峡を通過する外国船への砲弾攻撃を実施した。その戦後、長州藩は幕府に従ったのみと主張し、彼らに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

  1863/05に、攘夷実行の大義のもと、長州藩が関門海峡を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を開始。6月には、報復として米仏軍艦が関門海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部を占領して新しく砲台を築き、海峡封鎖を続行した。  1864/07に、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定して、仏蘭米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成した。この連合艦隊は8/5~8/7に下関中心部と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。関門海峡の砲台は連合艦隊により無力化されてしまった。長州藩は、以後、欧米列強に対する武力での「攘夷」を放棄し、外国からの新知識や技術を積極的に取り入れ、軍備軍制度を近代化してゆくことに積極的になる。

新下関駅


①

②

③

  静かな新幹線駅。無理やり必要だったろうか?