西周時代


第1章 西周時代
 西周時代は、BC1050頃〜722年で、政教一致の時代で、政治と学術は密接不可分の関係にあり、学問とは一般に人を治める方法を学ぶことで、官吏と学者は分離せず、官吏が即ち学者であり、民間には学者という階級はなかった。従って個人の意見や思想を発表した著書はない。周代では史官が学術の権を掌握して、当時の史官の職は世襲であり、書物の性質は、概して民を治めるための政書政典であったので、思想言論の自由は全くなかった。

一 天の思想
 殷代は、始祖神たる帝が、地上の人間に対して災禍を降し、福佑を賜い、人間世界の一切を支配する至上神として崇拝されたが、それを発展させたのが周代に於ける天の思想である。それは殷周革命に合理的根拠を与えるためのもので、殷が滅亡したのは天命を喪ったからであり、周が殷を滅ぼして天下を取ったのは天命を受けたからという。殷の氏族神たる帝より一段高い存在として天が周人によって認識された。


第2章 文王と周公

 文王の祖父、古公亶父(たんぽ)は、肥沃な西山(岐山)、陜西の渭水下流地方に移住し、その子王季の時代はよく繁栄した。殷王武丁は王季を謀殺し、その子文王を紂王は都に招致して、?里に監禁したが、周は莫大な賄賂を使って辛うじて免れることができた。その子武王に至って革命を決行して勝利したが、二年後に崩じた。嗣子(しし)成王は幼少で、武王の后で、成王の生母邑姜(王姜)が摂政就き、武王の弟の周公旦が、庶弟の召公せきと共に実務をとった。

一 文 王(BC1152〜1056)
 文王は、姓は姫、諱(いみな)は昌、商(殷)に仕えて、三公の地位にあり、仁政を行った。ゆう里に幽閉された時期に、周易を書いた。財宝と領地を帝辛(紂王)に献上して釈放され、西伯に任じられた。その後呂尚を軍師に迎え、北方遊牧民族等を征伐し、晩年には政敵の崇候虎を討伐したが、最後まで商の臣下としてあり続けた。死後に次子(長子は?里で殺されている)の武王が商を倒し、周王朝を立てて、文王と追号した。妻には帝乙の妹もいる。

二 周公旦(生没年不詳)
 周公旦は、姓は姫、諱は旦、昌(文王)の四男で、武王を補佐して殷打倒に当るが、その後の詳細はわからない。魯公となるが、嫡子の伯禽にその支配を委ね、自らは中央で政治に当っていた。礼学の基礎を形作った人物とされ、「周礼」、「儀礼」を著したとされる。