易と孔子


第9章 易とは
一 易の成立
 元来卦辞や爻辞は卜筮の?辞(ちゅうじ、うらないのことば)で卜筮家が卜筮の都度作ったもので全部が一時にできたものではない。従って卦爻辞の作成をある時代に限ることはできない。古いものは殷代あたりの作と思われ、詩のような体裁のものは詩経の影響を受けて西周時代の作と思われる。西周初期の当時の占筮家の手に成ったものと思われる。

二 易の思想
 「易」は天と人、すなわち自然と人生との間に一貫した理法が行われていると為し、両者の統一を以て出発点とするものである。されば「易」の主目的は天地の象、すなわち自然界に行われる法則を卦面に写し出し、これを人間生活の上に応用して吉凶禍福を判断し、人間行為の準則を立てるにある。


第10章 孔子とは
 孔子は、名は丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)、魯国昌平郷陬邑(すうゆう)に生れ、73歳にて死す、BC552〜478年。

一 伝統的信仰に対する態度
 吉凶禍福的迷信的思想を斥けて道徳の実践指導に当り、政治の術を講じ、合理主義的な傾向にある。天を畏れ、祖先の霊に事(つか)えるという旧来の伝統をすなおに取り入れている。

二 仁
 仁とは、人と人とが親しみ愛することで、親愛の情即ち同情心に基礎を置いている。常人は欲望の制約のために過誤失錯に陥る場合が多いので、純粋な性情が発露して外部的規範としての礼と調和することを以て真の仁と考えた。仁を実現するための実践方式を「忠恕」と「礼の履踐」を説いた。

三 礼
 孔子は修養の方法として道徳的規範たる礼を履踐することを特に重んじた。精神方面を重視し礼を内面化し、且つ道徳的に合理化して、形式としての礼に重要な意義をもたせ、この形式を履行してその内に存する道徳性も養成せられるとした。更に政治的秩序としての礼も力説している。礼の等差を厳守することによって上下の秩序を維持できると考えて政治の術として重んじた。

四 正 名
 正名とは、名分を正すことで、貴賤上下尊卑長幼の身分を明らかにすること。世の混乱を名称と実質とが一致しないところから生ずると考えた。身分地位を厳守してその職分を尽すことによって社会の秩序が維持される。それは礼制が厳守されれば貴賤上下の身分が自ら明らかになり、秩序が保たれるので、礼制を厳守することが正名思想の具体的な方策となる。

第11章 孔子と易
 十翼の作者は、孔子と言われている。
 孔子の言行を記した論語には、孔子が十翼を作ったという記載はない。ただ孔子の言葉として、「加我数年五十以易可以無大過」(述而、じゅつじ)がある。ふつう(我に数年を加え、五十以て易を学べば、以て大過なかるべし)と読まれて愛読したと見られ、「不恒其徳、或承之羞」(雷風恒九三)(その徳を恒にせず、あるいはこれが羞じを承ける)と論語の子路(しろ)に見える。また、史記(孔子世家、せいか)には、「孔子晩而喜易、序彖繋辞説卦文言」(孔子晩(年)にして易をこのみ、彖・繋辞・説卦・文言をのぶ)といい、韋編(いへん、とじいと)三たび絶えるまで愛読したともいう(当時の書物は竹に漆で書いたものを革のひもでつないだ)。
 しかし、十翼の思想は孔子の思想と大きく異なるし、繋辞の鬼神も孔子は説いていない。史記の書かれた(BC100年頃)時にすべてできいたかも疑わしいし、隋書経籍志に、説卦伝は漢の宣帝の時(BC74〜49)河内の女子が始めて発見したとあり、史記の書かれた時には説卦も世にはなかったのであり史記の記載にも疑問が残る。
 また、「五十以学易、可以無大過乎」も唐の陸徳明の経典釈文には「魯論(魯に伝わった論語のテキスト)にては易を読んで亦となす」とあり、易を亦の仮借(かしゃく、仮字)として読めば、「五十以学、亦可以無大過乎」となり、五十以て学べば、また以て大過なかるべしとなり、学問一般の効用についての孔子の感想になる。
 そして、恒卦の爻辞に就いても、易に曰くの引用がなく、共通の諺を両方が用いたとも考えられる。そもそも先秦の書物で易を引用した例がほとんどないのである。

 孔子の倫理は、「いやしくも仁に志せば悪なし」(里仁、りじん)で、動機主義にあり、占いの書である易とは、あい容れない。また、子路が神々にはどういう態度でつかえるべきかとの質問に「神々につかえることより、まず人によくつかえることを考えた方がよい」(先進、せんしん)とも言っている。さらに、樊遅(はんち)が知とは何かとの質問に「鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂うべし」(雍也、ようや)とも言っている。また、「文化問題では先生からいつも教えを受けている。だが、人間の本性、天の法則(天道)、こういった問題については、先生はなにも語ろうとされない」(公冶長、こうやちょう)。と弟子の子貢が言っている。さらに、「子、神(しん)を語らず」(述而、じゅつじ)とも言っている。

 それならば、なぜ孔子が翼伝の作者とされたのか。それは、漢の時代に儒教が国教と定められるためには強力なバックボーンが必要とされ、当時好まれた易に伝が作られ、その作者として儒教の聖人とされる孔子の名を用いることになったと考える。